「非人間」と共生するふたつの作品から見える、差別に対抗する手段とは

2020.11.13

舞踏を通じて、人形とゼロから関係を結ぶ過程

唐突な話だけれど、私は自分が自分である、あるいは人間であるという実感が薄い。

いつも自分を外側から見ているような感覚で、身体という「箱」に自らを収めたとしても人間であると思えない。人間の形をした人形と、人間の違いはなんなのだろうと本気で考えることもある。

生物と非生物の違いというのは、どうにもしっくりこない。もしも人間らしい人形がいたとするならば、非生物の人間として捉えてもよさそうなものだと思うからだ。

飯田将茂監督の『double』は、まさに人形が人間になっていく過程を見せてくれたと感じた。

同作品は、『さいたま国際芸術祭2020』に出展されたドーム映像作品。プラネタリウム劇場を映像鑑賞の場とし、その特性を利用して身体と向き合う作品を上映してきた飯田監督。最新作では、舞踏を通じた人間と人形の関係性を主題としている。

主演は舞踏家の最上和子さん、共演する人形は、最上さんをモデルとしたポートレートドールだ。

『double』 人形制作:井桁裕子

人形を覆ったベロアのような生地の布がゆっくりと引き下ろされていく最中、その襞(ひだ)の立体感が血の通った産道のように見えてくる。しかし、長い時間をかけて“生まれた”人形は、服を着ておらず、髪の毛すらもない、正真正銘の人型の「モノ」だった。

その真横に横たわる最上さんが人形に少しずつ手をかけ、人形の足を折りたたみ、座らせるなどしながら、人形に接していく。最初は、人間と人形すなわちモノとの関係ほどに開いていた距離も、最上さんから人形に向けられる慈しみのまなざし、触れ方が、だんだんと、人形にヒトの輪郭を与えていくようだった。

光や音といった特殊効果なくして、人形が閃光のごとく生気を放つ瞬間がたびたびあり、正直に言えば怖かった。何か見てはいけないものを見たような、決定的瞬間に立ち会ってしまったような気がしたのである。同時に、そうした体験が映像の中でも損なわれず、生きつづけていることに、この作品のすごみを感じた。

クライマックスが近づくとき、人形をうしろから支えるように立っていた最上さんが背後へ倒れるシーンがある。このとき人形は、最上さんを覆うように表側にいる。表を現実や現世とすると、背後は裏で“あちら側”、すなわち死ではないか。

人が裏側へ逝ってしまったとき、生気を湛えた人形が表側に存在することは、人形が人の想いや念を流し込む鋳型であり、身代わりだということを示唆しているのではないか。さらに踏み込んで言えば、想いや念を流し込まれた人形とは、いっそほとんど人間なのではないか。

そのあと、割れんばかりの拍手と共に映し出される劇場の客席。この瞬間、これまでの客観的な視点が宙に投げ出され、私は自分が何者なのかわからなくなってしまった。もはや自分の身体から意識だけが浮遊しているような状態。死の直後には、こんな感覚を覚えるのかもしれない。

舞踏を通じて人間と人形の間に関係を構築していく作品に、そんなことを想った。

――女性差別、人種差別、セクシュアルマイノリティに対する差別……

人の間に生まれるさまざまな差別は、すべて「人間」という共通項の上に生まれている。同じ人間なのだから、同じ人種なのだからわかり合えるはずだという、ある種の希望的観測が怠慢となり、想像力の欠如を生み、距離を縮めることができないのではないか。

だとするならば、もっと遠い対象との距離を縮めたり、共生したりする試みからヒントを得ることができるかもしれない。人工的な自然や人形といった「非人間」へのアプローチから私たちが受け取るものは大きい。

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