20〜30代の観客が急増する理由とは? 特異な演劇集団「唐組」という生き方<ルポ:紅テントと「特権的肉体」>
時代にそぐわない、あまりにも非効率的なスタイル。しかし今、20〜30代の観客が増えており、劇団員にも若手が目立つ。
2024年5月に亡くなった伝説的な劇作家、唐十郎が残した劇団「唐組」。トラックで運び込まれた資材で、劇団員自らが丸3日をかけて“紅テント”を設営し、その中で数回の公演を行い、今度は丸1日かけて撤去する。1960年代から一貫して、活動にまつわる一切を自分たちの手で担いながら、全国で公演を続ける。
この異質なクリエイティブの、何が人々の心をつかんでいるのか? この場に身を置くことで、何が得られるのか? 2024年6月に長野で行われた公演に密着し、唐組という生き方を選んだ人々の姿をレポートする。
目次
一夜の夢のような、たった2時間のために
「これじゃエジプトの奴隷じゃないか!」
年配の俳優が不満を口にすると、一緒に仕事をしていた役者たちの間から屈託のない笑い声が上がった。
6月のある暑い日、長野県の善光寺にほど近い公園で、劇団員たちが歯を食いしばって運んでいたのは、劇団唐組の象徴である「紅テント」のテント生地だ。200人以上の観客を収容し、35年にわたって雨風に耐えてきたこの分厚いテント生地は、折りたたむと大人10人でようやく持ち上げられるくらいの重量になる。その設営は普通のキャンプとは訳が違い、4tトラックに満載された木材や鉄製の支柱を使って、まるで一軒家を建てるような調子で行われる。
作業に当たるのは、劇団トップの座長代理から若手劇団員、客演の俳優、そして地元有志のおよそ20人。工事用ヘルメットを被り、腰にインパクトをぶら下げて重い資材を運ぶ男性俳優たちは、演劇人というより土木作業員に見える。彼らが紅テントを張る間、女優たちも楽屋として使用する小さなテントを張ったり、衣装の整理に食事の用意にと忙しく働く。
2024年5月4日、劇作家の唐十郎が死去した。享年84歳。
寺山修司や蜷川幸雄に先駆けて自身の劇団・状況劇場を立ち上げ、60〜70年代の前衛演劇を牽引した「アングラの帝王」。紅テントを引っ提げて、新宿中央公園で250人の機動隊に囲まれながら上演を強行したり、戒厳令下の韓国やレバノン、パレスチナの難民キャンプで公演を打ったりと、伝説は数知れず。状況劇場解散後も、後継となる劇団唐組を率い、死ぬまで演劇に携わった。
生涯に残した戯曲の数は100本超。小説を書けば芥川賞を受賞。状況劇場からは、麿赤兒や根津甚八、小林薫、佐野史郎といった著名な役者も輩出している。「三度の飯を食うように芝居をしたい」と語った唐にとって、テントを張ること、酒を飲むこと、生活することのすべてが芝居だったはずだ。彼の劇団員たちもまた、テントを張り、ともに飯を食い、一夜の夢のようなたった2時間の公演を行うことで、芝居を生きている。
設営に丸3日、恐ろしく非効率的なスタイル
唐が亡くなった翌日から、『泥人魚』という作品の東京公演が始まった。神戸に始まり、岡山、新宿花園神社、鬼子母神、長野と、1カ月半かけて全国を巡業する。『泥人魚』は2003年に初演された作品で、読売文学賞(戯曲・シナリオ賞)や紀伊國屋演劇賞(個人賞)など、演劇界の名だたる賞を総なめにした唐の後期の代表作である。
内容は、深刻な水質汚染をもたらした長崎県の諫早湾干拓事業に材を取ったものだ。奇しくも今年4月、諫早の漁業者が国を相手取って起こした裁判で、最高裁が上告を棄却し、漁業者側の敗訴が確定した。堤防の開門をめぐる複雑な対立は、『泥人魚』の初演から20年経った今も地元に禍根を残している。
唐自身は、2012年に自宅で転倒して頭を打って以来、後遺症のため亡くなるまで隠居状態だった。唐が倒れたのもこの初夏の時期の公演中で、自身もいつものように舞台に上がっていたが、唐がいなくなったあとも代役を立てて公演は続けられた。そして今は、座長代理の久保井研のもと、こうして劇団員総出で紅テントを立て、過去の戯曲を上演している。そのスタイルは、唐の存命中とまったく同じである。
紅テント設営は、舞台美術の設置、照明・音響機材の取り付けまで含めると、丸3日かかる。炎天下から一転、雨が降り出すと、劇団員たちはカッパを被って作業を続ける。過酷な労働環境である。紅テントを支える鉄製のメインポールの設置も、重機を使わずに人力で行われ、まさにエジプトのピラミッド建設を思わせる。こうしてテントを張るごとに丸太やトタンに釘を打ち込むが、中には30年以上使われている木材もあるという。
現在使われているテント生地は、劇団でもっとも古株の久保井が入団した1989年に新調した3代目になるが、この紅テント自体がここにいる誰よりも長く唐十郎の演劇と伴走してきた。テントの資材や公演に必要な美術、機材を載せてきた2台の4tトラックは、巡業ごとにレンタルしており、運転も元劇団員や知り合いの役者が請け負っている。レンタル費用を節約するため、荷物を降ろしたら一度東京の業者に返却して、公演終了に合わせてまた長野まで運転してくるという。
テントの解体も、公演最終日の深夜に作業を始め、翌日いっぱいかけて行われる。再びトラックに積み込まれた資材は、山梨にある「乞食城」──これも70年代に劇団員によって自力建設された稽古場に運び込まれ、やっとひとつの地方公演が終了となる。
恐ろしく非効率的。既存の劇場を借りたほうがはるかに安上がりだし、何より手間も時間もかからない。
今なぜ、唐組の公演に若い観客が増えているのか?
長野での『泥人魚』の公演は、週末のたった2回のみ。夕闇訪れる時間になると、唐と同世代の人々や、その子供世代、さらに小さな子供たちまで、幅広い層の人々が公園に集まり、紅テントの中に吸い込まれていく。かつて寺山修司が、唐を自身の劇団に誘った際に「俺はサーカスのように移動する劇団を作る」と語ったことにヒントを得て、唐が生み出したこの紅テントという演劇装置。街なかや河原、山の中に突然現れるこの異様な建築物は、その内部に入ると、真っ赤なひだに包まれるような非日常的な感覚をもたらす。
その登場初期から「子宮」にたとえられてきた赤いテントの中に腰を下ろし、隣の客の息遣いを感じながら、観客は芝居を体感する。とてつもないスピードと声量で発される唐組の役者たちのセリフは、吹き荒れる暴風のようだ。唐はその演出において「水」を頻繁に舞台に上げたが、この『泥人魚』でも、劇中で汚泥を含む水を張った大きな水槽が運び込まれる。「ガタ土」と呼ばれる泥の堆積した諫早湾の海を模したものだ。
この中に、かつて唐は頭から飛び込んでのたうち回り、今は座長代理の久保井がその役を引き継いで泥水まみれになっている。前列の客にも水がかかる。あらゆるものが清潔に、自動化され、公衆トイレでさえウォシュレットが設置されるような現代には、まったくそぐわない演出。
しかしコロナ禍を経て、唐組の公演は若い観客が一気に増えているという。特に東京公演では、20〜30代の客の姿がかなり多く見られる。
アングラ演劇が発展した高度経済成長期の残り香さえ知らない世代が、今なぜ唐の世界に惹かれているのか、その理由はさまざまだろう。だが、名も知らぬ200人と過ごすこの紅テントという空間で、役者たちの発する過剰なエネルギーを浴びることは、肉体がデジタル技術に置き換えられつつある現代にあって、ほかでは得られない経験であることは間違いない。そして猛々しい「荒事」を特徴とする唐の芝居は、よく見れば、弱い者や貧しい者、忘れ去られたもの、個人の小さな世界への感傷に満ちている。
元気だったころは客と口論して殴り合いまでするほど血気盛んだった唐は、一方で限りなく優しく繊細な人間だったという。創作において扱うテーマは社会性のあるものが多かったが、どの作品もその核には感傷と詩情が横たわっている。
存在自体が文化遺産の<全員が役者でありスタッフ>
全員が役者である劇団唐組では、上演中の照明、音響操作も役者たちが入れ代わり立ち代わり行っている。上演前のもぎりや上演後の物販もすべて彼らの仕事だ。舞台で使用する美術も、稽古後に自分たちで作ったものである。ここ長野では、劇団員たちは公園の脇にある地元の公民館──神社と一体化した平屋の古い建物に布団を敷き、全員で寝泊まりをする。
食事は東京・雑司が谷の鬼子母神から毎年譲られる米や、地元の支援者から提供された食材をうまく使い、質素だがボリュームあるものが提供される。こうした食事や経費を管理しているのも、00年代からヒロインを務めるベテラン女優の藤井由紀だ。夕食後は銭湯で汗を流し、酒が好きだった唐がいたころと同じように、みんなで焼酎を回す。
現在、このようなかたちで固定した劇団員が運営に当たり、舞台に上がるスタイルを採る劇団は少なくなっている。たとえば野田秀樹のNODA MAPは、作品ごとに俳優・スタッフを集めるプロデュース公演システムを採っており、ケラリーノ・サンドロヴィッチのナイロン100℃も、劇団として俳優が所属しているものの、やはり作品ごとに柔軟に出演者を選んでいる。両劇団は1万人規模の観客を動員する人気劇団だが、東京などの都市部で活動するいわゆる「小劇場」の作り手たちになると、劇作家を中心に作品ごとに制作スタッフ、俳優を代えて公演を打つ場合がほとんどだ。
唐組のように強固な劇団の座組を維持しているのは、唐と同世代の鈴木忠志のSCOTや、後続世代である平田オリザの青年団などの例があるものの、業界では少数派になっている。ましてや舞台まで自分たちで作り、野外公演を続けるなど、その存在自体が文化遺産である。
ちなみに、60年代にフランスで旗揚げされ、パリ郊外の旧弾薬庫を拠点に集団創作を続けている世界的な劇団・太陽劇団が2023年に来日した際、唐組の公演を観に来た役者たちは、劇団員が総出で運営に当たる活動方針を聞いて、自分たちとまったく同じだと語ったという。
役者の生活はすべて芝居のためにあり、劇とは役者の肉体そのもの
どんな仕事も専門化、分業化、時に外部委託すれば生産効率は上がる。それを目的化するのが資本主義だ。しかし唐組の役者たちは、なぜ舞台に立つよりもはるかに長い時間をかけてテントを張り、演劇活動にまつわるすべてのことを自分たちの手で担うのか。それは「ソフトだけではなくハードを作る」と言った唐の信条によるところが大きいだろう。ソフトとはもちろん芝居のことだが、ハードは紅テントのみを指すのではなく、生活基盤すべてを含んでいる。
唐は昔、アルバイトに出かけようとする役者に「バイトなんかするな」と言ったという。理不尽ではあるが、唐にとって役者の生活はすべて芝居のためにある。唐は27歳のときに『特権的肉体論』をものし、後年までその理論を自らの演劇の中核に据えた。その中で唐は、他人に血を流させ、それを観察して芸にするような芸術至上主義者の態度をあげつらい、次のように書く。
他人の血を吸って咲く芸は、芸道のアカデミズムしかつくらないだろう。私たちが現実にさし出して見せる芸は、現実の中で流した自らの血によってしか償えないし、それによってまた、芸は卑俗でありつづけるのだ。それこそ現実的というものだ。(中略)それは、一介にして朽ち果てることによって、現実的には卑俗であっても伝説的には高貴なのだ。卑俗さが尊厳さを切って見せるように、特権的肉体が肉体を切らねばならない。この時表現は、街のド真ん中で遠征と襲来を一挙に現実化させる時だ。
『特権的肉体論』(白水社)「いま劇的とはなにか」より
唐の言う特権的肉体とは、まず、訓練され均質化された芸術のための身体ではなく、その人唯一の背景──個人の人生を刻み込んだ肉体のことである。この肉体が己を凝視し、また観客に凝視されるとき、特権的肉体が立ち上がり、劇が始まる。
若いころは金粉ショーダンサーとして全国を廻り、倒れるまで舞台に立ち続けた唐にとって、劇とは役者の肉体そのものだった。だから彼らは舞台に立つために血を流し、己の肉体を凝視しなければならない。それが紅テントを張り、生活のすべてを芝居に捧げるということだろう。「三度の飯を食うように芝居をしたい」という言葉の真意は、ここにある。
特異な集団創作の場で、彼らは何を得るのか?
舞台に立つたった2時間のために、過酷な労働に耐える唐組の役者たちは、そうやって日々自らの特権的肉体を鍛錬している。実際、彼らの体力、精神力、声量は、どこの劇団に行っても通用するだろう。何より、この特異な集団創作の場に身を置いたという経験が、彼らの唯一の背景を個性的で魅力的なものにする。
著名な劇団としては格安のチケット代で、これだけ非効率的なスタイルの活動をしている以上、全員等しく貧しいことは推して知るべし。しかし、金があっても大して必要のない広告の中の商品を買わされるより、貧しくとも同じ夢を持つ仲間と働き、自分が立つ舞台を自分の手で作ることのほうが、どれだけ生きる実感を与えてくれるか。そしてそれは将来につながる縁と、金では買えない経験をもたらしてくれる。
労働問題が複雑化し、社会全体を孤立化の波が襲っている現代にあって、唐組という生き方は、大切な示唆を与えてくれる。
【参考資料】
唐十郎『特権的肉体論』(白水社)『唐十郎血風録』(文藝春秋)『唐十郎 特別講義』(国書刊行会)
扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波書店)『唐十郎の劇世界』(右文書院)
『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』(河出書房新社)
大島新『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』※映像作品
上記に加え、劇団員の久保井研氏、稲荷卓央氏のインタビュー、ほか若手劇団員との会話を参考にした
唐組・第74回公演『動物園が消える日』
【今後の公演場所・公演日程】
場所:雑司ヶ谷・鬼子母神(東京都豊島区雑司が谷3-15-20)
日程:10月26日(土)、27日(日)、11月1日(金)、2日(土)、3日(日)、4日(月・祝)
時間:18時30分開場/19時開演
【チケット取扱所】
唐組:03-6913-9225
イープラス:http://eplus.jp/karagumi/
シバイエンジン:https://shibai-engine.net/prism/webform.php?d=oe2d7nbo
※当日券は午後2時より受付にて発行
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