「当たり前」が揺らぐ時代に投げかけられた、家族や性を「つくる」ふたつの作品

2020.9.13

文=佐々木ののか 編集=碇 雪恵


展覧会や映画の本数が、徐々に戻りつつある。数カ月ぶりに、オンラインではないかたちで作品に触れたという方も多いのではないだろうか。

「家族と性愛」を看板に掲げる文筆家・佐々木ののかが、この8月に足を運んだ展覧会や映画の中から、「理想の性器」をテーマにした展覧会「新水晶宮」と、「人々を幸せにする花」がもたらす恐怖を描く映画『リトル・ジョー』を読み解く。


性器やセックスも、自分の手で「つくれる」かもしれない

美術家・俳優の遠藤麻衣さんと、アーティストの百瀬文さんによる展覧会「新水晶宮」を観に行った(TALION GALLERY/2020年7月4日~8月2日。10月より京都巡回予定)。お世話になっている友人に教えてもらって、というのが直接のきっかけだが、最終的に足を運ぶに至ったのは「理想の性器」というテーマに強く惹かれたからだった。

唐突な話であるけれど、私は自分の(女性の)性器が昔からあまり好きではない。小学6年生のときに国語の授業中に行ったディベートで「男がいいか、女がいいか」という議題のときに(今思えばすごい議題である)私は「おちんちんのほうがかわいいから男がいい」と発言して、誰の共感も得られなかった悲しい想い出がある。

私は女体を気に入っているけれど、性器だけは男性のあの形がよかったと今でも思っているのだ。一方で、男性器が挿入されるときの“侵入感”を相手側に感じさせるのは申し訳ないような気がして、なんだかもっと「いい感じ」で交わることはできないものかとたびたび考えていた。そんな私が「理想の性器」などと言われて観ずにいられるはずがない。

展示は、おふたりが粘土を用いて対話しながら「理想の性器」をつくっていく手元を映した75分の映像と、また別の形をした着ぐるみの“性器”同士が邂逅し、交遊して去っていく15分程度の映像のふたつで構成されていた。

遠藤麻衣×百瀬文「新水晶宮」展示風景 撮影:木奥恵三 Courtesy of TALION GALLERY

砂漠で邂逅する“性器”の映像は「こんな性器なら今すぐなりたい」と思うほど愛らしかったけれど、観終わったあとも逡巡してしまうのは、やはり対話の中で形づくられる理想の性器の映像だった。

性器やセックスへの固定観念の鱗が、ハラハラ剥がれ落ちるような気づきをもたらす対話の連続。生物学的な性として男女のほかに、「α(アルファ)」「β(ベータ)」「Ω(オメガ)」の3つの性があるとする「オメガバース」の考え方や、属人性を持たずに独立していろいろな人と結合する“誰のものでもない”性器など、やわらかな対話の中で繰り出される新鮮な概念にずっとボディブローを喰らいつづけているような状態だった。

とりわけ印象に残っているのは、最後のほうに登場する“水路”のような形状の性器だ。“つながる”すなわちセックスをするときに水路の“ゲート”がつくられる仕組みで、そこには何人まででも“参戦”できる。“水路”の壁から自ずと生成される丸い物質が転がり、各々の“ゲート”で受け止め合うことで快楽が生じる。

そこには挿入する側/される側といった観念がないのはもちろん、同時にふたり以上とセックスできること、快楽をもたらすのは当事者や当事者の性器ではなく「物質」という第三者であること、(作中では言及されていなかったがおそらく)遠隔でも結合できること、などなど、私たちが普段思い描いているセックスがいかに画一的であるかを思い知らされるような要素が隅々まで凝縮されている。

「家族は自分たちでつくっていけるのだ」と、数々の取材対象者の方に教えてもらってきた私だが、性器やセックスも「つくれる」のかもしれないと思わせてもらえて、“かわいくはない”自分の持ち物が少しだけ好きになった。

美しい真紅の花に宿る、グロテスクな「母子の愛」


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