『日本沈没』の問いに答える『日本沈没2020』。「日本人」「日本」とは、政治的な線引きが生んだ虚妄なのだろうか

2020.8.2

決めつけはナンセンス

『日本沈没2020』は、この低い視線から、改めて『日本沈没』の物語を語り直そうと試みた。そのアプローチは、『日本沈没』をひとつの「問い」と考え、その「答え」を探そうとすること、にも似ている。

『日本沈没2020』小松左京原作 吉高寿男ノベライズ/文藝春秋
『日本沈没2020』小松左京 原作/吉高寿男 ノベライズ/文藝春秋

物語の中心にいるのは武藤一家。舞台の照明技師の父・航一郎、元競泳選手でたくましい母・マリ、陸上選手で中学3年生の長女・歩、オンラインゲームに夢中な小学2年生の弟・剛という4人家族だ。武藤一家に寄り添うように進んでいく本作は、潔いほどに政府の動きをオミットして物語を進める。マスコミの報道が登場する場面も限られていて、むしろ海外からの断片的なネットの情報のほうが「正しい」ものとして扱われることもある。マクロの視点を欠いたまま、武藤一家はアリのようにさまようことになる。

『日本沈没2020』予告編 – Netflix

ここで興味深いのは、母のマリがフィリピン出身という設定だ。さらに剛はオンラインゲームが得意なこともあって、ふとしたときに簡単な英語がちょくちょく口から飛び出す。今どき、片親が外国出身という家庭など珍しくはない。だからこそこの一家を通じて、本作が原作から「日本人とは何か」という問いかけを受け継いでいることが次第に明らかになる。

それはスーパーを経営していた老人・疋田国夫が剛に「日本人なら日本語を使え」と告げる点描から始まる。そして終盤では、メガフロートで“純粋日本人”だけを救助している集団が登場する。そこで剛、歩、マリは「純潔な日本人でないものに、神聖な日本の地を踏ませるわけにはいかない」と告げられたりもする。

さらに第9話になると、剛と歩、それに行動を共にしてきた歩の先輩・古賀が、ラップで日本人についての思いをぶつけ合うシーンが出てくる。剛は「島国根性の集団行動」と怒りをぶちまけ、古賀は「建前で人を傷つけない心遣いこそ優しさを感じる」と長所を口にする。そして最後に歩は「日本だとか外国だとか、比べることが無意味」「この国の人はこんな人だって決めつけはナンセンス」とこの議論を一蹴する。ここが『日本沈没2020』の「日本人とは」という問いかけの、いったんの結論となっている。

『「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』(高野陽太郎/新曜社)はその中で、「日本人は集団主義」などの文化的ステレオタイプに関する、アメリカの心理学者、デイヴィッド・マツモトの研究を紹介している。それによると、人間がある行動を起こす場合、「状況」と「個人(個性)」の影響力を比べると、「状況」が8、「個人」が2と圧倒的に「状況」に偏っているのだという。さらに「個人」と「文化」を比べると、その影響力は「個人」が9で「文化」が1。つまり人の行動に「文化」はほとんど影響を与えないのである。

『集団主義という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』高野陽太郎/新曜社
『「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』高野陽太郎/新曜社

そもそも「日本人は集団主義」の根拠の背景にある「日本人は単一民族だから」という概念そのものが歴史的な状況の産物だ。
『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』(小熊英二/新曜社)を読むと、「日本人は単一民族」という概念そのものが戦後に普及したということが指摘されている。戦前は朝鮮・台湾を獲得し、その住民を帝国臣民に含んでいたこともあり、日本はアジア諸民族の混合から生まれた民族であり、だからこそ大家族のように彼らを混合同化するのである、という考え方が優勢だったのだ。それが戦後、台湾・朝鮮が日本でなくなり、それまでは傍流だった、日本は太古から単一民族で、農業民の平和的国家であったという論調が強まり浸透したのだ。「それは戦後の象徴天皇制や、敗戦による国際関係への自信の喪失、そして(略)一国平和主義の心情と合致していた」(同書)。

『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』小熊英二/新曜社
『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』小熊英二/新曜社

「一国平和主義の心情」にマッチした「単一民族」という概念が、排外主義の根拠になってしまうというのはとても皮肉な歴史の結果ではある。だが、こういう背景を調べると、歩が口にした素朴な結論も案外、簡にして要を得ており、根拠があるものだということが見えてくる。

つまらん民族になりさがるか……

では「日本人」とは「日本」とは、政治的な線引きが生んだ単なる虚妄なのだろうか。『日本沈没2020』はそこにちゃんとひとつの“答え”を出して締めくくった。「クニ」とひと言で言っても「ガバメント(政府)」を指す場合もあれば、「ネーション(国民)」を指す場合も、「カントリー(故郷)」を指す場合もある。『日本沈没2020』は最終回で、カントリーとしての日本が生んだ「風土と文化」を愛おしいものとして提示する。そしてそのカントリーで時を過ごした人々の姿も、その間に織り交ぜて見せていく。その人々こそ皆、ネーション=日本人であるというかのように。そこではガバメントの用意した線引きは意味を持たない。
小説『日本沈没』で政財界に大きな影響力を持つ渡老人は、沈没という国難をこう総括していた。

「いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……。(略)外の世界に呑みこまれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……(略)それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の〝おとな民族〟に大きく育っていけるか……(略)わが身の不運を嘆いたり、世界の〝冷たさ〟に対する愚痴や呪詛ばかり次の世代にのこす、つまらん民族になりさがるか……これからが賭けじゃな……。」

『日本沈没 決定版』小松左京/文藝春秋

最終回は、渡老人のこの自問に対する答えにもなっている。このようにして『日本沈没2020』は『日本沈没』という“問い”に向かい合ったのだった。

そしてこのラストは言外に、現実の私たちは果たして「おとな民族」たり得ているだろうか、ということも問いかけてくる。


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藤津亮太

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