本能という方便
『BEASTARS』という物語は、動物たちの姿を借りることで、実社会における種々のソーシャルイシューについて考えを深める手がかりを提供してくれる。
ジェンダーや人種、貧富などにまつわる不均衡な構造に対する感度は、現代を生きる上で今後ますます必要性が増していくだろう。実際に多くの人が日々積極的に、これらのトピックに対する自身の感覚のアップデートを試みている。
ただ、こうした潮流が盛り上がりを見せるときには、同時に水底に沈殿していた澱が巻き上げられ、アップデートに向かっていく人々の気概を削ぎにかかる。
たとえば、「でも本能だから」といった常套句がそうだ。
「でも女は女、本能だからどうしても性的に見ちゃうよね」
「でもカッとなったら手が出るのは本能だから」
この思考停止の言葉は未だに現役で、前に進もうとする人々の足を引っ張りつづけている。
『BEASTARS』でも食肉欲や性的衝動について、本能という言葉で説明される箇所がたびたび登場する。しかし、それは本能を理由にした思考停止を甘受するものではない。
現に最終巻では、獣社会の“本能”に対する無反省さの象徴であった裏市が、名もなき市民たち自身の手によって破壊された。動物たちは本能を飼い慣らしたのだ。これは人間社会でも実現可能なことだ。本能がなんら絶対ではないことを、我々は日々証明しつづけているのだから。
だってあなたは推しのアイドルの個別握手会に出かけた日、“本能的に”襲いかかることなく会場を出た。だってあなたはパワハラ上司に詰(なじ)られ極限状態に追い込まれても、“本能的に”殴り殺さずに今日も退勤した。あの日もあの日も、あの日さえも、人間の尊厳を保ったまま帰路についたはずだ。
人間は本能を制御し、社会の秩序を優先することができるからこそ動物でなく人間たり得る。あなたは本能を、自分の中の動物をとっくに手懐けている。そんなあなたの言う「本能」は、自分にとって都合のよくない何かの言い換えではないか。動物ですら飼い慣らした本能を我々はいつまで言い訳にできるだろう。
『BEASTARS』の最もよく知られるキャッチコピーは「動物版ヒューマンドラマ」だ。人間社会における日々のありふれたドラマの背景にある不均衡や歪みが、動物に置き換えられることで逆説的に生々しく浮かび上がる。本稿がそうした一つひとつのドラマの読解の助けになればうれしい。
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