私の“故郷”はどこにあるのか 『絲山秋子展』から学ぶ、その“土地”に生きるということ

2021.3.11

生きた存在を生み出す、“土地”に根差した緻密な視点

『絲山秋子展』には、まさに、絲山さんが拠点とする群馬を中心に、“土地”で生きる人々を描いてきた彼女の仕事がギュッと凝縮されている。

同展は、絲山さんの経歴やテーマ別に解説される「作品ガイド」など、作家としての絲山さんの仕事の紹介はもちろん、10人の書店員などとの書簡を展示した「公開書簡フェア」、ラジオパーソナリティや大学教員といった、作家以外の顔にも光を当てている。絲山秋子という人が、立体的に浮かび上がるような構成だ。

▲「群馬を描く」コーナーに展示されている群馬県の地図。物語に登場する場所がマッピングされている

展示のメインとなる「作品ガイド」は、「群馬を描く」「ロード小説-地方を描く-」「会社員小説」「距離感」「神様・異世界」の5つのコーナーに分かれ、さまざまな視点を縦横無尽に行き来する絲山作品の懐の深さが伝わってくる。

12年間の会社員時代に見つめてきた人間模様や、営業として福岡、名古屋、高崎、大宮を渡り歩いた経歴を読んでから作品ガイドに触れると、これまで読んできた作品がさらに重厚になるようで、しばし呆然としてしまった。

▲物語に矛盾がないよう、出来事を時系列に並べた年表(「ロード小説」コーナー)

ただし、絲山作品の魅力は視点の多様さだけではない。描かれる登場人物たちのディテールの緻密さも、多くの読者を魅了してやまないポイントである。もちろん、私もそのひとりだ。友達がひとりもいなかった思春期に、絲山作品を貪るようにして読んだのは、登場する人物たちを実在するように思っていたからだと思う。

地方都市・高崎で何にも熱くなることができず、神主になることだけが決まっている将来に漠然とした不安を抱えながら生きる『薄情』(新潮社/2015年)の宇田川静生に共感した。東京で数々の女性の家を転々としたヒモ生活から遁走(とんそう)し、新潟、富山、呉へと流れる『不愉快な本の続編』(新潮社/2011年)の乾に惹かれた。『ニート』(KADOKAWA/2005年)に登場する、かつて性的関係にあった「ニートのキミ」と、彼を引き取った「作家の私」との“ただの友人”にも“恋人”にも括れぬ関係に憧れた。

絲山作品に登場する人物には、どこか「欠落」した人たちが多い。北海道の田舎町では出会うことのできなかった、日本のどこかに“いる”彼らを“同志”のように思い、勝手に救われていたように思う。

▲『絲山秋子展図録』オリジナルバッグつき

ちなみに、著者である絲山さん自身も登場人物を身近に感じることがあるという。図録内のロングインタビューの中で、『逃亡くそたわけ』(中央公論新社/2005年)と「まっとうな人生」(『文藝』にて連載中)に登場する主人公の花ちゃんとの関係についてこんなふうに語っていた。

「けれども、この間ゲラを直していたら、なんだか花ちゃんがゲラを一緒に見ているような感じ。『実は話し遅れたけどこういうこともあったったいね』というふうに、彼女がゲラを手伝ってくれているみたいな、そういう感覚がありました」

同インタビュー内で、小説家の役割について、「インフラを整備すること」だけで、「そこに住む人たちの人生はその人たちが決めること」とも語っていた絲山さん。一方で、インフラの整備が不十分であれば、登場人物が“自分らしく”自由に生きられない。

そうした意味で、生きた存在として語りかけてくる人物たちを生み出せた背景には、絲山さんのその土地へのつぶさなまなざしを感じずにはいられなかった。

心の縄張りが可視化できる土地を求めて

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