オリラジの吉本退社、小林賢太郎の引退から考える「テレビ芸能界」の終焉。“テレビからネットの時代”の行く末とは?

2021.1.10

閉鎖的なネット空間から「トランスローカル」へ

パンス SNSがテレビと違うのは、当然ながらあんまり意識されない事実として「各個人によって見てるものが違う」ってのがあるよね。全体として世論のようなものを形成することがある点ではかつての大メディアに近いかもしれないけど、それってたとえば新聞に取り上げられたりとか、大メディアあってこそ機能している状態だったりする。基本的には小さな言説がグルグル回っていて、なんとなく外が見えなくなっていると思うパターンも多い。と考えると、オンラインサロン的な空間が片一方の極として、それに近いような現象はあちこちで起こっているともいえるわけだ。そうすると、どうなんだろうな。最近は新聞取ろうかな、なんて考えているんだけど。
小さな空間で協働する、という点だと、かつてもコミューンとかはそこに可能性を見出したりしていたわけじゃないですか。でもそれって外に見えることでインパクトを与えて、時代が変わっていくものだった。SNSやYouTubeにおいてそれがどうなるのかは気になるな。ただタコツボ化していくのか、そうでないものになっていくのか。

コメカ オンラインサロンの濃度を上げようとすると、先日の鼎談で粉川哲夫さんが仰っていた「トランスローカル」性を持ち得なくなると思うんですよ。スタンドアローン的な密閉空間を作って内部濃度を上げていくことが重要になるわけだから。

コメカ ただそうなると、かつて村上春樹が言った「精神的な囲い込み」みたいな問題が出てきかねない。「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」(『毎日新聞』2008年5月12日掲載インタビュー「僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉」)というのが村上の発言だったんだけど、オンラインサロンはこういう「精神的な囲い込み」の装置になりかねない危険性が常にあるビジネスだと思うんだよね。
粉川さんがポピュリズムはローカリズムの亜種だと仰っていたけども、ポピュリスト政治家が特定のローカル単位を強調して大衆を扇動するように、オンラインサロンのカリスマも、濃密なローカル環境に顧客を落とし込むことでマネタイズする。どちらも「囲い込み」があってこそ成立する手法であるわけだ。参加者たちが、そこで発生する精神的な枠組みから抜けることができなくなってしまう可能性が出てくる。

パンス 「囲い込み」つつ、自分もそのプロジェクトに参加できる、いわば協働して何かを作り出すというのがウリになっているパターンもあるよね。そこが新しく、既存のシステムを変えるという触れ込みになってるんだけど、誰かリーダーがいて引っ張っていくという構造自体は温存されている。そこがポイントになると思うな。

コメカ 中田や西野はたぶん、今の自分たちの動き方こそが「外部に対してインパクトを与えて、時代や社会を変えていく」ものだと自負しているんじゃないかと思うんだけど、彼らが「小さなカリスマ」として作っているローカルは、ほかのローカルなり「社会」なりとリンクを持つ「トランスローカル」なものではなくて、「内部の盛り上がり」に大きく依存したインナーサークルビジネスだと思うんだよね。
正直、ツイッターで右派発言をしてネトウヨの支持を取りつけているほんこんのやり口と基本的には変わらない(笑)。マネタイズの方法論が確立されているか否かの差があるだけで、情報技術を利用した芸人/タレントの「囲い込み」商売であるという意味では同じ。これらが今後「外部」にインパクトを与えて大状況を動かしていくことは正直言ってないと思う。
お笑い芸人の動向というのはそれそのものは単なるサブカルチャーの一ジャンルの出来事に過ぎないわけだけど、情報環境内でプレイヤー化・キャラクター化するということについて、この国では80年代以降彼らが先端的な存在になってしまった。そして彼らが今直面している「テレビからネットへ」という事態のなかで、果たして誰が「トランスローカル」的な動き方に辿り着けるかということに、僕は興味がある。テレビがかつて担保していた広範な接続可能性が失われたあと、何がしかのローカル環境を各自が構築せざるを得ない状況を前提として、その各ローカルの間にユニークな「交通」を立ち上げるような芸人たちが、今後出てくるような気がするんだよね。

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