COVID-19、うちで踊ろう、ネットとプライバシー…粉川哲夫×TVOD“2020年”を考える(1~6月)

2020.12.30

「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」

コメカ 5月にトランプは「オンライン検閲防止に関する大統領令」に署名しました。トランプはツイッターでの自身の投稿にファクトチェック警告がつけられたことに対する報復として、ソーシャルメディア運営者たちの「免責」を剥ぎ取ろうとしました。プラットフォームへの攻撃はこのような政治権力/保守側からのものだけでなく、差別的なコンテンツを放置することへの批判などのかたちで、リベラル側からも起きています。
僕個人としても、同じく5月にツイッタージャパン笹本裕がインタビュー(『文春オンライン』2020年5月10日掲載「『なぜツイッターは青年会議所(JC)とパートナー協定を結んだの?』社長の本心とは」)で発言した、「ヘイトスピーチなどに関しても『何が正しくて、何が正しくないのか』『どこに線引きをすべきなのか』ということについては『解がない』と思っています。そのような『解がない』ことに関して議論に加わることは控えたいのです」というような無責任な態度は批判されるべきだと思いますし、自分としても批判します。
ただ、保守/リベラルが共にネットにおける「表現の自由」と「自己責任」的な放任に対して規制を試みる状況をどう捉えるべきか、ということについては今年一年も悩みつづけた感覚があります。監視技術が高度化し接続した瞬間に素っ裸になってしまう現在のオンライン状況が、良くも悪くも「社会化」していく軋轢に今立ち会っているのかな、と感じていました。

パンス もう20年も前の出来事ですが、「2ちゃんねる」の西村博之による「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という発言は、そのあと長く日本のインターネットにおいて「柔らかいルール」のように機能していたと思ってます。放任しながらも自律を保つためには自己責任でやるしかない、という声明だったわけですが、当時と比べるとネットの人口もあまりにも増え過ぎて、このようなルールでは自律できない状態になっているので、さてどうするべきか、という段階に来ていますね。
そのような水準での議論がある一方で、そもそもインターネット自体が監視システムであるという状況をどう自覚するのか、というのは悩みどころです。悩みながらもスマホを楽しく使っている自分もいるわけで。ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、COVID-19の諸々と合わせて、今までで最も「世界の中で自分がどう振る舞うのか」という問いを投げかけられている感じです。

プシク 表現は、内容よりも、その技術的なメディア性に左右されると思います。同じ「内容」でも大手のテレビや新聞とSNSとでは違う《はず》でした。ところが、いつの間にか、SNSの規模をマスメディア以上の規模で使う使い方が一般化してしまいました。インターネットメディアの規模がグローバルであるだけでなく、ローカルでかつ「分子的」であることがほとんど意識されないように思います。
ローカル/分子的といっても、閉ざされているわけではなく、全体とつながっているわけですから、ミクロな規模で起こったことが世界を変え得るし、事実変えているのですね。だから、メディアの使用規模(サイズ)の問題をどうするかを論じないと話が先に進まないでしょう。ひろゆき氏のような先を見るクリエイターは巧みに規模をあんばいしながらメディアを使ってきたと思いますが、ネットの表現規制の問題は、多くの場合、マスメディアに対して使い古されたロジックで論じられています。

パンス 使用規模といえば、少し話がズレてしまいますが、今はどちらかというとクローズドなやりとりが盛り上がっているのかな、という気もしてきます。自分のまわりを見ていても、少人数で話したいことを話すようなノリが出てきています。香港の民主化運動ではテレグラムが活躍していたといいますが、そこでのやりとりもなかなか表には出てこないものですよね。
2014年、ガザ地区に住むファラ・ベイカーという少女が、ツイッターで空爆の様子を「実況」したのが世論を動かしました。石ではなくツイートによる「インティファーダ」は、ある意味その後のトランプのツイート群と対になっているように見えます。ミクロな行為が与える影響として、5月25日に撮影された動画をきっかけとした「ブラック・ライヴズ・マター」運動は今年最大だったといえるかもしれません。次回、そのあたりの話もできればと思います。

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