絶望が簡単に覆されることの絶望
草食獣の自尊感情の不全というテーマを語る上で、ハルとはまた違った重要な視点を提供するキャラクターがいる。レゴシのアパートの隣人、ヒツジのセブンだ。
小型草食獣でありながら、大型肉食獣が圧倒的マジョリティである大手スポーツ用品メーカーに営業職として勤務する彼女は、毎朝あえて身の安全が保証された「草食獣専用車両」に乗らず、満員電車のストレスで気の立った肉食獣たちがひしめく車両に乗り込む。
それは肉食獣たちと対等に並び、ビジネスマンとして結果を出していく決意表明、あるいは自分で自分にかけた呪いともいえる。
彼女は職場で「ラムちゃん」と呼ばれている。ヒツジのあだ名としての仔羊肉を意味する「ラム」は、食肉がタブー視される獣社会においてシャレになっていない。ところが彼女は日々愛想笑いでそれを受け流し、成果で黙らせるために必死で業務に打ち込む。ところが働きは認められず、不本意な部署異動を命じられてしまう。
徹底的な“なめられ”で必死に守ってきた自尊感情がいよいよもたなくなり、ボロボロになった彼女は、「営業から外れたし」「もう捨てよう赤い口紅なんて」と、退勤後に自宅の洗面台の前でひとりごちる。
そして翌朝、彼女はいつものように殺伐とした肉食獣がひしめく満員電車に乗り込む。そして突発的に、乗り合わせた大型肉食獣の青年の目を見つめながら、“頬を3回叩く”アクションをする。これは自殺企図の草食獣が行う“食べていいですよ”のサインだ。このエピソードは作者自身の体験をベースにしていると単行本のあとがきで語られており、同様に自分の身に置き換えて心当たりのある人もいるだろう。
セブンがレゴシと連れ立って歩いている際に、同僚たちと遭遇するエピソードもまた、彼女の自尊感情を考える上で象徴的なエピソードだ。
同僚たちがセブンを「ラムちゃん」と呼ぶのを聞いて、レゴシが「この人の名前はラムじゃないですよ」と言うと、同僚たちは態度を一変させて真剣にこれまでの侮辱的な態度を謝罪する。これは美談ではない。絶望だ。
レゴシは「ラムちゃん」という呼び方に侮蔑のニュアンスを感じ取っていさめようとしたわけではなく、単純に疑問に思って訂正しただけだ。彼女が日々作り笑いでいなしてきた呪いをひと言であっけなく覆してしまった。たった1匹の10代の子供の、愛想笑いもせず、反射的に出た無防備なひと言が。単に体の大きな強面の肉食獣のオスだというだけで、こんなにも発言力が違う。社会に大事にされる度合いがこんなにも違う。
言うまでもないが、これは我々の社会でもよく見る光景だろう。同じ意見でも女性が言うのと男性が言うのとで通りやすさがまったく違うといったことは、日々あちこちの会議室で、教室で起こっている。さる総理大臣経験者によると、女性は話が長いので会議に何人もいられると困るらしい。これは彼がそもそも女性の発言権を認めていない、女性の意見を聞く価値がないものと断じている、という自白でしかないということは周知のとおりだ。
男性が作った男性ばかりの場で、男性に認められたごくわずかな女性がかりそめの発言権を与えられる。その“認める”基準さえ、発言内容の有用性ではなく、単に気に入られているか否かで判断されもする。今でいえばClubhouseで似たようなことが起こっていると何度となく聞かされた。
このように、発言権を奪うも与えるも権威を持つ者の一存で決められるアンフェアな環境で、自尊感情が健全に培われるべくもない。
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