考察『鬼滅の刃』「被害者としての鬼」を際立たせる「走馬灯システム」の鮮烈

2020.9.8

鬼滅の刃3

文=多根清史 編集=アライユキコ


映画『無限列車編』の公開(10月16日)も目前となった『鬼滅の刃』。ライター・多根清史が考察するシリーズ第3回のテーマは「被害者としての鬼」。死の直前のリプレイドラマ、「走馬灯システム」は『鬼滅の刃』の大きな魅力のひとつに違いない。

悲劇のドミノ倒しこそが『鬼滅の刃」の物語

『鬼滅の刃』のドラマ本編は、竈門炭治郎の成長と鬼にされた妹・禰豆子を人間に戻すための奮闘であり、彼らを取り巻く鬼殺隊と鬼舞辻無惨を頂点とした鬼たちとの戦いだ。そして「もうひとつの本編」は、敵味方の区別なく描かれる走馬灯だろう。死を目前とするなかで、これまで生きてきた道のりを振り返るリプレイ映像である。

『ジャンプ』漫画において、ボス戦がひと区切りついたところで過去編に長尺が割かれることは珍しくない。『ONE PIECE』では定番と言ってよく、特に劇中ではすでに故人となったキャラクターたちの生き様を掘り下げ、現代編では点と点だったキャラ同士を線でつなげ、あるいは果たせなかった志のバトンを主人公らに渡して、世界観を広げながらストーリーを加速させていく。それを描くなかで作者自らがタイムマシンに乗るように遍歴して「発見」する何かもあるのだろう。

少なくとも序盤〜中盤での『鬼滅』の走馬灯が他の過去編と一線を画しているのは、ひとつにはほとんど現代の主人公たちと関係ない出来事ばかり扱われることだ。

考えてみればそちらのほうがむしろ自然なことで、敵にしろ味方にしろ家族や大切な人たちが惨殺されなければ、鬼になることがなければ出会うわけがなかった同士が過去に縁があるはずがなく、実は昔会ってました、因縁がありましたというほうがレアだろう。終盤になると互いにつながってきたりするのだが(物語を最も盛り上げるのは「宿敵」だから自然そうなる)それまでは、ただひたすら「知らない人」の身の上話が繰り広げられる。

もうひとつには、罪のない人々を貪り喰らう鬼たちの比重がとても大きいことだ。ただの人間に過ぎず数に限りある鬼殺隊をそう滅多に逝かせるわけにはいかない事情もあるためか、鬼側の「走馬灯」率はかなりの割合に及んでいる。

それにしても鬼たちは大量殺人をしている罪深い存在であり、走馬灯は「悲劇に至るやむを得ない事情」を描くものだから相反しているようにも思える。どんな動機であれ人を殺すのは許されないし、加害者が大事に扱われたなら被害者のほうが浮かばれない。

にもかかわらず鬼の走馬灯が丁寧に描かれるのは、彼らの多くが「被害者」の一面を持っているからだ。自ら望まず鬼にされたために最愛の人たちの命を奪い、その苦しさから逃れるために次々と人喰いをつづけ、やがて怪物に成り果てる。そして鬼殺隊の剣士に頚(くび)を斬られたときに時をさかのぼり、懐かしい人々と再会してからチリに還っていく……。

鬼殺隊も多くは身内を鬼に殺された遺族で、たまたま鬼にならなかった者たちだ。その意味で鬼も鬼殺隊も被害者であり、「鬼の血を分け与えられたかどうか」の偶然が敵と味方を分けているに過ぎない。

平穏に暮していれば出会わず殺し合いもしなかった被害者たちを結びつけているのが、すべての元凶・ラスボス鬼舞辻無惨の存在である。気まぐれに鬼の血を与えて部下として引きずり込み、人を喰らって強くならなければ部下の命を奪う究極のパワハラ上司である。

そんなパワハラ上司が気まぐれでばら撒いた、悲劇のドミノ倒しこそが『鬼滅の刃」の物語。その部下の死に「鬼は人間だったんだから 俺と同じ人間だったんだから」(5巻)と悲しみを込めて見送れる竈門炭治郎は、戦闘力的な強さよりも諸悪の根源がどこにあり、何を憎むべきかを正しく見定めているから主人公なのだ。

人間だったころのこじらせ度に比例して強くなる


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