山﨑賢人が顕在化させる“人間のピュアネス”
近年では、なんと言っても、『キングダム』での成果。一見、吉沢亮のカリスマ性が物語を牽引しているかに思えるが、その吉沢を必死で支えようとする山﨑賢人扮する主人公の気概こそが、作品の頑丈な地盤たり得ていた。
どちらかといえば、繊細な役どころのイメージの強い山﨑賢人だが、ここではワイルドな野生児もなんなく乗りこなす万能選手ぶりを見せた。
重要なことがある。山﨑は、たとえば、荒っぽいタイプの人物像を体現しても、演技そのものはきめ細やかで【折り目正しい】。彼の表現は、きちんと折られた折り紙のように気分がいい。また、楷書で丁寧に書かれた鉛筆文字も想起させる。
つまり、ちゃんとしている。が、これ見よがしなところは、皆無。押しつけがましさは一切漂わず、ただ心地よい風が吹く。表現の根幹は、あくまでも具象にある。しかし、伝わってくる肌触りは抽象的でもある。いわゆる気分や感性に傾いた所作ではなく、徹頭徹尾、懇切丁寧なのだが、説明芝居に陥る愚を犯さない。
山﨑賢人は、だからこそ、非凡。
もっともらしい、演技派の装いなど、見せない。熱演や力演とも無縁だ。
『キングダム』と同じ監督によるNetflix作品『今際の国のアリス』でも、素晴らしい冴えを見せた。
普通の少年が、デスゲームがすべてを支配する極限の世界の渦中に放り込まれ、サバイブしていく。こうした極端な設定であっても、山﨑賢人の演技はけっして力瘤が入らない。あくまでもニュートラルに、エネルギーを放出している。エンジンに無理がかかっていない。
そう、健やかなのだ。
かつては、その見目麗しさから学園一の王子様的な役もあったが、そうした少女漫画特有の極端なシチュエーション(こうした極端さは、少女漫画に限らず少年漫画も抱えているもので、だからこそ、実写に置き換えることが難しいと思われている)においても、山﨑の落ち着いた佇まいが崩れることはなかった。
彼は、人物にデフォルメを加えない。あくまでもフラットに喜怒哀楽を表現する。どのような渦中にも日常があり、どのような人物にも平常心があることを掴み取る。
又吉直樹の小説を映画化した『劇場』でもそうだった。
コンプレックスの反動で、無軌道に生き、同棲相手を苦しめる。たとえば【無頼】と表現できるかもしれない主人公の像を極めて精緻に描写しながら、ありきたりな狂気ではなく、その心象の真っ当さこそを丹念に掬い取り、だからこそ、始末に負えない風情を創り上げた。その風貌から、イメージチェンジと誤解する向きもあったが、違う。
山﨑賢人は、人間のピュアネスを顕在化している。その点では、見た目が違っていても、作品やキャラクターのテイストが異なっていても、何も違わない。ピュアネスは、美しいものでも、尊いものでもない。誰もが当たり前に有しているサムシングだ。
ただ、そこにあるピュアネス。
そこに、山﨑賢人は、一切のフィルターを用いることなく、そっとライトを当てる。だから、ありのままのピュアネスが浮かび上がる。飾り立てず、説明せず、人間を人間のままで提示する。
だから、山﨑賢人は信頼できる。
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