有村架純とW主演を務めた『花束みたいな恋をした』、小松菜奈と共に平成元年生まれの青年に扮した『糸』、寺山修司の長編小説を2部作で実写映画化した『あゝ、荒野』など、菅田将暉の近年の主演作をざっと振り返っただけでも唯一無二の存在であることがわかる。
そして、彼の最新主演作『キャラクター』が2021年6月11日に封切られた。テレビドラマでも数々の話題作で主演を務める菅田将暉は、なぜそこまで俳優として重宝されるのか。
ライターの相田冬二は、「菅田は、キャラクター固有の呼吸によって、私たちを吸引する。心地よく罠に落とす」という。俳優の奥底にある魅力に迫る連載「告白的男優論」の第3回、菅田将暉論をお届けする。
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圧倒的であり、決定的な存在
菅田将暉、無双。
実力と人気が凄まじいデッドヒートを繰り広げ、刺し違えんばかりに拮抗している様ひとつを取ってみても、この6文字は決して大げさではないだろう。
真の実力者が、そのポテンシャルに見合った支持を獲得することは、こと芸術の世界ではなかなか起こり得ない。なぜなら、芸術は、スポーツのように勝ち負けがクリアに可視化(数値化)されるわけではないからだ。
菅田将暉は圧倒的であり、決定的な存在である。そのぶっちぎりの美徳を列挙していったら、キリがない。
ピュアネスと狂気。カジュアルにしてクラシック。明るさと暗さ。大胆にしてきめ細やか。主役としての牽引力と脇を固める的確さ。完全なオス性と女性の相手役としての柔軟性。屹立とボーダレス。
相反する要素をざっくり混ぜ合わせ、ざざっと炒めて、冷めないうちに「喰らわせてしまう」カウンターキッチンの主のような辣腕と余裕が、観る者を虜にする。
美味いものは、美味い。
そう呟かずにはいられないほど、菅田将暉がもたらす「演技現象」は、明快で痛快だ。
ひとり超然と、スタアとしてそこにいる
セリフ回しには、「菅田生まれ」とでも形容すべき独自のドメスティックな響きがある。己の声の特性を熟知している点は大きい。方言とも、きれいな日本語とも一線を画した、彼だけの「現代性」が、オーディエンスに親近感を抱かせる。
そして、ここが重要な点だが、その効果=影響は、けっして先鋭的ではなく、むしろ古典的。言ってみれば、スタア性がある。だから、新しい。
アヴァンギャルドな個性を際立たせ、差異を拠りどころにアーティスト然としている演じ手は山のようにいる。むしろ、21世紀においてはそちらがスタンダードだ。
菅田将暉は、「菅田将暉」という唯一無二の「地域性」を生きながら、差異におもねることをしない。汎用性があり、なおかつ、表現の感触がフレンドリーだ。だから、スタアたり得ている。
誰もがトリックスターを目指しているときに、菅田将暉はひとり超然と、スタアとしてそこにいる。
青山真治監督の『共喰い』から土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』に至る彼のフィルモグラフィを俯瞰するならば、菅田が作家性を有した監督たちに起用されてきた事実が浮かび上がる。菅田は、作家映画にメジャー性を与える。逆も真なり。メジャーなエンタテインメントに登場しても、その作品に作家性を付与するのだ。
作家映画の極北『溺れるナイフ』と、エンタテインメントの極北『帝一の國』それぞれを、同時期に乗りこなしてしまう才能。それが菅田将暉である。