ポップカルチャーに本質的に備わった「快」の強さ
本書の訳者あとがきによれば、ジェンキンズは『コンヴァージェンス・カルチャー』に先立つ著書『テクストの密猟者』において、ファン共同体によるコンテンツへの独自のコンテクスト付与を、ミシェル・ド・セルトーの概念を借用し「密猟」と表現したという。それに倣って言えば、この今日的な仕掛け人なきパロディは、特権的な密猟者など存在し得ないということを改めて確認させてくれる。もし誰かが政治的な意図をもってコンテンツの特権的な密猟業者たろうとしても、その意図とは無関係なパロディが別のところで発生し、その密猟の特権性を奪う。こうしたコンテンツ流通のあり方は、まさしく「メディアの制作者とメディアの消費者の持つ力が前もって予見できないかたちで影響し合うところ」という「コンヴァージェンス・カルチャー」の性質を、本書が書かれた時代のコンテンツ以上に体現している。
最後に、その仕掛け人なきパロディにおいて、何がイニシアティブを握るのかを仮説的に少し考えてみたい。もし特権的な意図が成立せず、集団のなかからパロディが自然発生するのだとしたら、どんな要素がそれを促すのだろうか。「ハム太郎」の事例においては、おそらくコンテンツに内在するプリミティブな快楽がその役割を果たしているように思われた。「アニメソングをパロディしながら曲に合わせて走り回る行為」そのものの楽しさは、それをする「理由」が伝わらなくとも浸透していく。そしてそのことは、もともと日本のオタクカルチャーにおいて「ハム太郎」のサークルが楽しまれていた要因と同じなのである。
ポップカルチャーのコンテンツやパロディが、接点のないはずの現場同士を容易に行き来し、時にハードルの高い政治的な活動さえも支えてしまうのは、まず第一にそこに「快」の強さがあるからだ。そしてそれは、特定の意図が特権的な役割を持たなくなることでさらに加速する。
良くも悪くも、「快」に促された運動は、意図による抑圧を受けることなく拡大していく。そのことが「ハム太郎」のようにポジティブな結果を生み出すこともあれば、「カエルのぺぺ」のように火種をもたらすこともあるだろう。しかし重要なのは、そこでは意図が後景に退き、見えにくくなりがちだということだ。「コンヴァージェンス」は、ポップカルチャーの持つ力がそのようなものであるということを、いささかの恐れも含みながら記述できる概念でもあるように思える。
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