もうおもしろいはおもしろくない
ツッコミは元来“どこがボケなのか”をガイドする役割だ。そして、もうわかっていることをガイドされると人はイライラする。おもしろくない。
この松本人志のお笑いは、客がひと通りのお笑いを知り、成熟したからこそ成立するもの。より実際の事情に則した言い方をするなら、客が成熟してしまったので、こうでもしないとおもしろくならないのだ。
さらに言えば、その成熟を促した主犯のひとりがほかでもない松本人志本人だろう。松本人志本人、逆から読んでも松本人志本人だ。
彼はコントで支離滅裂な物事や「怒り」「暴力」「白け」といった“お笑い”じゃなかったさまざまな機微を“お笑い”の枠組みで表現してきた。俗に“シュール”と称される作風(原義とは異なる用法だけれど)で、これもまたまだおもしろいとされていないことをおもしろいことへ転じるスタイル。コントを作っていたころから一貫している。
ここまでの仮説が丸っきり的外れなものでなければ、近年の“ボケたのと別のところにツッコミを入れる”手法も、こういった“まだおもしろいとされていないことをおもしろいことへ転じる”基本姿勢あってこそ生まれたものと言える。
そして、こうしたスタイルをつづけてきた結果、知らず知らず教育を施す格好になり、客がどんどん育っていった。常に新しい“おもしろい“を期待してしまうようになっていった。自分で育てた客に適応してさらにその上を行く手を考える、それに慣れた客はさらに育ち、以下命ある限り繰り返し、という終わりのない思考の連続体が彼の“お笑い”だとしたら、ある種の求道に近い。
俯瞰の1ミリ上から新しいものを
ここまで仮説を展開してきて最終的に思ったことはひと言「ありがたい」に尽きる。知らず知らず我々は「すでにおもしろいことだとされていることはおもしろくない、もっとおもしろくないことをおもしろいことにしてくれ」というとんだわがままバディに成長してしまった。認知がメッタメタのメタに進化してきたのだ。
この進化は心底恐ろしい面を秘めている──つまり何もかもに退屈してしまうリスクと背中合わせだということ──のだけど、常に進化のさらに上手を取って新しい何かを提供してくれる人がいることのなんと尊いことか。そしてこれはお笑いだけに起こっていることじゃない。
音楽、映画、マンガ、ファッション、スポーツ、デザイン、あらゆるジャンルでこういうメタ化は起こっていて、どのジャンルでも消費者の俯瞰のギリギリ1ミリ上に到達した作り手が時代時代の新しいおもしろいものを見せてくれている。
生涯つづけられることじゃないのかもしれない。松本人志にしても、業界に対する姿勢やソーシャルイシューについての視座はけっして進歩的とは言い難いことが多いし、そういった価値観は芸に影響がある。
松本人志の次は誰なのか。誰が俯瞰の1ミリ上から新しいものをもたらしてくれるのか。案外特定の誰かひとりじゃないのかもしれない。なにせみんな同じ教育を受けてきているのだから。
関連記事
-
-
天才コント師、最強ツッコミ…芸人たちが“究極の問い”に答える「理想の相方とは?」<『最強新コンビ決定戦 THE ゴールデンコンビ』特集>
Amazon Original『最強新コンビ決定戦 THEゴールデンコンビ』:PR -
「みんなで歌うとは?」大西亜玖璃と林鼓子が考える『ニジガク』のテーマと、『完結編 第1章』を観て感じたこと
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会『どこにいても君は君』:PR -
「まさか自分がその一員になるなんて」鬼頭明里と田中ちえ美が明かす『ラブライブ!シリーズ』への憧れと、ニジガク『完結編』への今の想い
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会『どこにいても君は君』:PR -
歌い手・吉乃が“否定”したかった言葉、「主導権は私にある」と語る理由
吉乃「ODD NUMBER」「なに笑ろとんねん」:PR