個的なシンパシーから、公的なシンパシーへ
まず、「非常事態宣言」というワードが目を引く。明滅する文字の連なりは、昨年から今年にかけて二度にわたって発令されることになった「緊急事態宣言」と間違いなくクロスする。だが、襲来する使徒を、コロナになぞらえても意味はない。前述したとおり、エヴァは勧善懲悪のヒーローものではないからだ。
私たちが生きているコロナ以後の世界は、使徒が襲来するエヴァ世界に似ているのではなく、主人公、碇シンジの心象に接近している。ファザコンで、マザコンで、逃げてばかりいるからこそ、「逃げちゃだめだ」というフレーズを呪文のように唱えるシンジ。
誰も、守ってくれない。ぼくはひとりぼっちだ。同い年の異性のパイロットは、愛されている。ぼくは、ちっとも愛されていないのに。どうして。どうして、ぼくばっかり。どうして、あいつばっかり。どうせ、ぼくはだめなんだ。ぼくは、ぼくだから、だめなんだ。
そんな堂々巡りの心の叫びは、今の私たちにそっくりだ。
国は、守ってくれない。こんなに大変なのに、何もしてくれない。不安で不安でしょうがない。あの業種は優遇されている。自分の業種は冷たくされている。どうして。どうして、何もしてくれないんだ。どうして、救ってくれないんだ。この仕事はあってもなくてもいいものなのか。自分は結局、その程度の存在なのか。要らないんだ。自分なんて要らないんだ。
孤独。孤立。恐怖。疎外。嫉妬。怒り。哀願。否定。自虐。自滅。
負の連鎖。かつて、シンジへの共感は、観客それぞれの人生に照らし合わされた個人的なものだった。つまり、プライベートなシンパシーだった。
だが、2021年に『:序』を目撃するということは、パブリックなシンパシーを抱え持つことに等しい。
私たちは、碇シンジだ。
出口も先行きも見えない、どこまでつづくかわからない、長い長いトンネルで、寝ては覚め、寝ては覚めを繰り返している。『:序』で描かれているように、いい夢を見ることはできない。もちろん、いい夢も待ってはいない。
それでもシンジがエヴァに乗るように、私たちもまた、この世界でどうにかサバイブしていくしかない。
2020年は、世界中のあらゆることが危機に瀕したが、芸術も例外ではなかった。映画も、アニメーションも、圧迫された。どうにかこうにか、かろうじて生き延びているに過ぎない。
今、この瞬間の芸術に必要なのは、崇高さでも、美しさでもなく、耐久性だと思う。踏まれても、蹴飛ばされても、放置されても、生きつづける耐久力、生命力、しぶとい力。
エヴァにも、『:序』にも、それがある。個的なシンパシーから、公的なシンパシーへ。
エヴァという生命体は、まさに覚醒しつつあるのではないか。
四十路を迎えた碇シンジの行方を、次なる『:破』で、さらに考えてみたい。
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映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』
原作・脚本・総監督:庵野秀明
監督:摩砂雪、鶴巻和哉
キャスト:緒方恵美(碇シンジ)、林原めぐみ(綾波レイ)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)
製作:カラー
制作:スタジオカラー
(c)カラー
※『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』はAmazon Prime Videoにて見放題独占配信中