池松壮亮論──渦の中の静止。池松壮亮の演技が私たちをつかまえる理由。

(c)2021 The Asian Angel Film Partners
文=相田冬二 編集=森田真規


現在、30歳。2021年7月9日で31歳となる池松壮亮は、早くからその演技力が高く評価されてきた俳優だ。そんな彼の最新主演作で、盟友・石井裕也が監督を務める『アジアの天使』が7月2日に封切られた。

ライターの相田冬二は、2018年に公開された『斬、』での主演以後、池松壮亮という演じ手にある変化が訪れているという──。俳優の奥底にある魅力に迫る連載「告白的男優論」の第7回、池松壮亮論をお届けする。

【関連】星野源論──サウンドとしての芝居。星野源的バックグラウンド表現を考える。

作品と観客を抱擁するただごとではない技量

かつて、名人、と形容したことがある。
池松壮亮の演技の手懐け方は、もはや古典落語を操る名人噺家のそれに匹敵するから、である。

音楽で言うなら、その超絶技巧は、ジミ・ヘンドリックスのギター奏法を想起させもする。とにかく、吸引力の魔がすごい。

技術的なピークは、出演作が異常なまでのラッシュ状態だった2016年の過密の只中にあった。是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』における阿部寛の相棒役のまばゆい陰影、西川美和監督の『永い言い訳』における本木雅弘の保護者としての編集者の冷静。師弟関係にある両監督が同時期にこの名人俳優を共有していたという背徳の事実にもゾクゾクさせられるが、この2作は、池松壮亮が、設定上の多様性を精緻に体現しつつ、人間の真実という核心を衝く射手であることに、ただただ打ちのめされる。

阿部や本木の相手役として、主演俳優の魅力を的確に高めつつ、自身の役どころの複雑性を波打つように漂わせ、そのウェーブフォームで作品と観客を抱擁する技量はただごとではなかった。

『海よりもまだ深く』​阿部寛×池松壮亮 息ピッタリの本編映像

サスティナブル。持続化可能、と訳される英単語があるときから、呪文のように唱えられているが、池松壮亮こそサスティナブルな俳優であろう。

彼は、たとえサブキャラクターを演じても、確実に私たちの眼差しを捉えるが、そこで派生したダイナミズムを映画に還元し、この世界を持続化する。

自身が扮した人物を肯定するのではなく、その人物やほかの人物たちが棲まうこの世界を肯定するのだ。保護し、見護り、力強く讃える。

このベクトルは、オムニバス『続・深夜食堂』の挿話を経て、ほぼ完成の域に達したように思う。

どんなポジションにも立てるオールラウンドプレイヤー

池松壮亮を前にすると、端役という概念は木っ端微塵に吹っ飛ぶ。

『横道世之介』や『わたしのハワイの歩きかた』では、画面占有率はごくわずかであるにもかかわらず、パクチーやミントのような残り香があり、その風味を作品全体のそれ、と錯覚してしまう。

悪目立ちしているわけではなく、映画を別な側面から(言うなれば、表側の物語だけを追いかけていてはけっして感知しえぬ作品の深層を)気づかせる契機となる。味変、という飲食にまつわる流行り言葉があるが、池松壮亮という薬味で味変すれば、映画は確実に美味しくなる。というか、知らず知らずの間に、私たちは池松で味変している。

だが、彼が、巧みなバイプレイヤーかと言えば、まったくそうではないと断言できる。『劇場版 MOZU』のように、パーフェクトに謎のダークヒーロー(と呼んでいいものかどうか悩ましいところだが)を顕在化させることもできるし、『海を感じる時』や『無伴奏』のように、ずぶずぶでとりとめのない、アウトサイドな不良性を撒き散らすこともできる。それらは脇役ではなく、作品の本質を形作る、言わば本丸だ。

【劇場版 MOZU】キャラクタースポット 「新谷和彦」編(池松壮亮)

映画のエンジン足り得る資質が彼にはあって、大泉洋の若き日を演じた『半分の月がのぼる空』、やはり大泉洋と共演し、前田敦子(彼女とも共演作が多い)を支えた『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』、妻夫木聡の弟として物語を牽引した『ぼくたちの家族』、そして菅田将暉との二人芝居で作品を成立させた『セトウツミ』と、純然たる貢献度を挙げていったら、キリがない。

池松壮亮&菅田将暉!映画『セトウツミ』予告編

どのようなポジションに立っていようと、チームの役に立つし、フォーメーション次第ではゲームは活性化するのだという真実を、結果で証明しつづける池松壮亮は、オールラウンドプレイヤーのサッカー選手のようでもある。

素肌の表現が感じ取れる『アジアの天使』

この記事の画像(全12枚)


関連記事

この記事が掲載されているカテゴリ

QJWebはほぼ毎日更新
新着・人気記事をお知らせします。