吉村府知事が忘れても、我々はポビドンヨードを忘れない。『わかりやすさの罪』と単純な思いつきの怖さを忘れまい

2020.9.12

たくさんの「?」を突きつけてくる『わかりやすさの罪』

で、残念ながら、この傾向がますます強まっていると思わざるをえないのが2020年の日本です。その一例が、吉村洋文大阪府知事による8月4日のイソジン会見。大阪府内の宿泊施設で療養中の新型コロナウイルスの軽症患者がポビドンヨードを配合したうがい薬を使ったところ、唾液内のウイルスが使用しなかった場合と比べて減少したとの調査結果を発表し、「研究段階で効果は確定的ではないが、ポビドンヨードを使ってのうがいの励行を呼びかけたい」と、いささか興奮気味に述べた例の一件です。「買い占めはやめてほしい」とは呼びかけたものの、案の定、うがい薬はドラッグストアからたちまち姿を消したわけですが、その後、専門家筋はこの“研究”を否定。頬を紅潮させ、あんなにうれしそうにイソジン効果を謳い上げていたくせして、吉村府知事は今現在そんな会見はなかったかのように、少なくともツイッター上ではポビドンヨードの「ポ」の字も書き込まなくなっています。

ま、勇み足というやつですよね。でもね、吉村(ひいては日本維新の会)に限らず、政治家なんつーものは選挙民に媚びるためにこの手の「わかりやすい」言葉を連呼しがちなわけです。ドラッグストアで買えるような、なんなら家に常備しているようなうがい薬で新型コロナウイルスが予防できるかもしれない。そういうわかりやすい言葉に対し、すぐさま「やったー!」もしくは「すわ!」と飛びついてしまわないよう、わたしたち受け手が成長しなければ、いつまで経ってもこの手のアホは下手な踊りをやめようとしないんです。

〈こんな私にも理解できる、わかりやすい○○を提供してください、という、ひとまずの謙遜から盛大な異議申し立てや要望を投じてくる流れは、この世の中のあちこちに点在している。私の眉間にシワがよっているのはあなたのせいなんだから、というクレーム精神がすくすく育ち、他人の主張に浸蝕していく。わかりやすいものばかり咀嚼すれば、噛み砕く力は弱くなる〉とあるのは武田砂鉄の『わかりやすさの罪』です。

『わかりやすさの罪』武田砂鉄/朝日新聞出版
『わかりやすさの罪』武田砂鉄/朝日新聞出版

〈どうしてわからせてくれないのか、どうして私が知らないことを言うのか。鎮座した自分の目の前を通り過ぎていく情報に対して、フィットするものだけを選ぶようになった。氾濫する情報の中で、人は、氾濫の中に巻き込まれるのを避けるために、動きを止めて、わかるものだけをわかろうとするようになった〉

武田はこの本の中で、わかりやすい言葉と単純な思いつきによって、AからZへと向かう途中で浮かぶ大事な疑問や逡巡や思考をすっ飛ばして、簡単に結論に至ろうとすることを「良し」とする風潮に対し手を変え品を変え異議をぶつけ、じゃあどうしたらわかりやすさという罠にはまらないでいられるかを自ら考え抜くことで、読者であるわたしにたくさんの「?」を突きつけてくる。「俺はこう思う、じゃあお前は?」と迫ってくる。今が胸突き八丁の刻なのだということを伝える迫力に満ちた論考になっているんです。

〈他者の想像や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる。「どっちですか?」「こっちです」だけでは、取りこぼす考えがある。あなたの考えていることがちっともわからないという複雑性が、文化も政治も、個人も集団も豊かにする。参考書売り場ではないのだから、日々の生活に「わかりやすい」ばかりが並ぶのは窮屈である。わかりやすさに縛られる社会をあれこれ疑いつつ、考察していく〉という基本姿勢で、『恋愛観察バラエティー あいのり』やビジネスパーソンに向けて良書を3000字程度に要約するサービス、ネットの中の乱暴な言説のひとつ「論破」、池上彰の番組と話法、NHKの放送基準、笑うべきではないところで笑う映画の観客、売れる文章、映画のキャッチコピー、明石家さんまが統率する笑いの空間、政治家の行為と発言、『あいちトリエンナーレ2019』の「表現の不自由展・その後」といった、さまざまな事象や現象に向き合い、思考と言葉を誠実に展開させていきます。

しかも、この本にはもうひとつ美点があって、それは先行書物の紹介です。武田は持論を展開する際、自分がこれまでに読んで思索の役に立ったたくさんの本から優れた一節を引用。その援用の仕方が巧みなので読みたくなってしまうんです。たとえばわたしの場合なら、河合隼雄『こころの処方箋』の新潮文庫版。

〈谷川俊太郎が「三つの言葉」と題した文庫版解説を、「河合さんがよく口にされる言葉が三つある。ひとつは『分かりませんなあ』、もうひとつは『難しいですなあ』、そして三つ目は『感激しました』である」と切り出す。河合さんならば何だって答えてくれそうなのに、いざ聞いてみると「分かりませんなあ」「難しいですなあ」と返ってくる。それでも「がっくりくるかというと、それがそうでもないのだから妙だ」。それはなぜなのか。「河合さんの『分かりませんなあ』は、終点ではない。まだ先があると思わせる『分からない』なのだ」「つまり河合さんと私は『分からないこと』において気持ちが通じる」とある〉
〈どこへ転がるかわからない、広がっていくかわからない、そんな言葉の跳躍力にすがり、期待する姿勢〉で粘り強く「わかりやすさの罪」を考えつづける武田は、他者の〈言葉の跳躍力〉にも敏感で、だから引用される書物はどれも魅力的で読みたくなるんです。

『こころの処方箋』河合隼雄/新潮社
『こころの処方箋』河合隼雄/新潮社

書評家として帯文に頼るのは情けない限りですが、まさに「納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うために」大勢の人に読んでほしい1冊。わたしたちの選択肢は「吉村府知事の主張を信じてイソジンを買う」「吉村府知事なんてそもそも嫌いだからイソジン会見もバカにして終わり」のふたつだけではない。わかりやすい言葉のうしろに広がっている、たくさんの疑問や可能性、不可能性、省略された(あるいは隠蔽された)意図、異論反論、共感などに考えを巡らせ、一足飛びにわかった気にならず、ゆっくり咀嚼する。そういう癖をつける。実を言えば、「吉村府知事なんてそもそも嫌いだからイソジン会見もバカにして終わり」だったわたしには耳が痛い、示唆に満ち満ちた本なのでした。

9月13日追記。

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