北山耕平インタビュー「新しい意識、新しい新聞」(赤田祐一)【第2回】ロック雑誌の中に「声」を探していた

2020.5.16

ロック・マガジンの中に「声」を探していた

北山 俺はやっぱり、ほんとに、ロック・マガジンというものが自分に与えた影響というのは大きいと思う。あの当時のね。60年代、『クロウダディ!』 *15 とか『ローリングストーン』とか、そういう雑誌の中に、やっぱり自分は「声」を探してたんだと思う。それを持ってる人たちの文章を、すごく吸収していったんだと思う。

――英語は当時からかなりできたのですか?

北山 今だって、できるとは言えないんだけど、片岡義男 *16 さんとつき合ってたせいもあるし、ロックの雑誌やってたせいもあって、外国人とつき合うことが多かったし。ロックの評論ってその当時、翻訳って限られたものしかなくてね。だから、一所懸命、探して読んでた。ロックの英語みたいなものは、学校では教えないよね。そういうのは、自分で勉強するしかないし、歌詞覚えたりとかそういうのもするし。そういう中でしか英語は覚えていかないんだよね。英語っていうのは、道具だし、使い方によっては、すごく有効的に使えると思うんだ。うまく使えば、発想の仕方が増えるからね。

『Quick Japan』(飛鳥新社)創刊準備号(1993年8月1日発行)。グラフィックス=羽良多平吉

――大学(立教大学)の時代は、どうされてたんですか。学校はロックアウトの時代ですね。

北山 ロックアウトされてました、3年間ぐらいね。だから、アルバイトとかしてました。僕は2年目ぐらいのとき、片岡義男さんと知り合ってたから、片岡さんの仕事の取材の手伝いとかね、運転手やったり、本の整理やったり。それで植草甚一さんとも知り合った。外国の文化的なものをどうやって日本に入れるかって考えてる人たちのかなりそばにいたもんで、影響をもろに受けて。大学のときというのは、やっぱり、ロックのお勉強みたいなところが非常に多かったんじゃないかな。あのとき、世界的な規模でロックのお勉強ってのが行われてて……理解しようとしなければ理解できないもんだからね。それじゃなければ、ただの音楽だし。だから、ロックの中にある「声」が大切なんだよ。ボブ・ディランが持ってる「声」も、さきほど言った「声」と非常に共通してる部分があるし。だから、非常に早い時期に、その「声」みたいなものに、俺は気がついたんだよね。

――「声」というのは「スタイル」ってことですか。

北山 スタイルというよりも、「声」なんだよね。文章ってのは服みたいなもんでさ、いろんな服は着れるけど、「声」はひとつでしょ。「声」っていうのは、たぶん、汎人類的っていうか、ある種の人間が共通して持ってる一種の意識だと思うんだ。それがあるって気がついたのが、多分、1960年代の後半頃、世界的な規模で若者文化(ユース・カルチャー)ってかたちで出てきたのであって。その人たちは、基本的には、いまだに変わってないと思うよ。それは自発的に自分で学習したものなわけ。鍵は、その「自発的に」ってところなんだよね。誰かに言われて勉強したんだと、それは自分のものにならないわけ。それを知って、自分で自発的にそれを学ぼうとした人たちだけが、その「声」を自分のものにできたんじゃないかな。今もそうだと思う、できるんだと思う。その部分って、すごく、俺は重要だと思う。

*15 『クロウダディ!』…66年、当時17歳の若さでポール・ウィリアムスが創刊したロック評論誌。ロックを初めて真面目に批評することに試み、優秀なロック・ジャーナリストを生んだ。

*16 片岡義男…『宝島』2代目編集長。かつては北山耕平の遊び友達であり、先生だった。北山耕平(小泉徹)との共著『ぼくらのアメリカ切抜帳』(1976年、徳間書店)もある。「ロックとは新しい物の考えかたである」ということを、日本で一番早く理解し、紹介した人。現在は、小説家。

カウボーイとインディアン


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