北山耕平インタビュー「新しい意識、新しい新聞」(赤田祐一)【第1回】ソフトな奴隷制を打ち破る編集

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文=赤田祐一


雑誌『クイック・ジャパン』は1994年10月、太田出版から創刊された(編集長・赤田祐一)。その前に、赤田が私費を投じて作ったパイロット版の創刊準備号(発行:飛鳥新社)が存在する。

『クイック・ジャパン』に、『クイック・ジャパン ウェブ』にもし魂があるとしたら、それは、創刊準備号に掲載された赤田による北山耕平インタビュー「新しい意識、新しい新聞」だ。2020年の今読むと、1993年当時よりさらに編集、出版、社会について切実さを持って迫ってくる。

『クイック・ジャパン』の創刊とは、1960年代のアメリカ西海岸で起こった、ロックを聴くことと同じように読むことのできるニュー・ジャーナリズムの精神を、1990年代の日本で展開する試みだった。

ニュー・ジャーナリズムとは何か。編集とは何か。

「キュレーション」的な考え方だけが「編集」なのか。編集とは近い将来滅びてしまう概念なのか。

当時、多くの若者を虜にした雑誌『宝島』の編集長(1975年~1976年)であり、『自然のレッスン』など多数の著書、翻訳書を持つ北山耕平の言葉を通し、編集という行為について思考する歴史的なインタビューを、全5回にわたりお届けする。未来の編集者たちへ。
(森山裕之)

※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。


ほんとうの意味での“ニュージャーナリズム”および“ニューエイジ・ジャーナリズム”は、日本には、まだない。

僕たちが「まだない雑誌」を試行錯誤の上で作り出そうとしたとき、雑誌づくりのお手本になった雑誌が、1970年代の『宝島』だった。

『宝島』は僕にとって、最初の意識革命の雑誌だった。70年代の『宝島』のザラ紙の印刷の中に、僕は新しい物の見方や考え方を次々に発見した。

『宝島』は、何事かに目覚めるためのきっかけであり、そこでは目に見えない爆発が起こっていた。このような体験は、これまでなかった。そんな『宝島』を編集していたのが、伝説の編集者、北山耕平だ。

北山耕平は、あのホールデン・コールフィールドと同じ「声」で、僕たちに、何がほんとうのことで、何がそうでないのかを、伝えてくれた。北山耕平の関わった雑誌は、今も変わらない鋭さで、若い魂を持った連中の心を突いてくる。それは、今の雑誌が切らせてしまった精神(スピリット)そのものだ。

北山耕平という優れたジャーナリストの編集した雑誌に、僕は、“ニューエイジ・ジャーナリズム”の「声」を聞いた。日本のまだ見ぬ“ニューエイジ・ジャーナリズム”の歩みは、そのまま編集者・北山耕平の足跡でもあるのだ。

若者雑誌界のホールデン(『ライ麦畑でつかまえて』)は、今年(1993年)で、43歳になっていた。僕にとって、かつて若かった兄のようであり、信頼できる先輩編集者である北山耕平に、新しい時代のジャーナリズムについて、話を聞きに行った。

『ローリングストーン』の日本版が作りたい

――僕、以前、北山耕平さんのお話を聞いたことがあるんです。「C+Fコミュニケーション」というところで、10年くらい前に、ジャーナリズム講座があって、そのとき“インタビュー術”という話をされてました。あれも思い起こしてみれば“ニュー・ジャーナリズム”の講座でした。あの時期、北山さんが雑誌『写楽』 *1 (小学館)で、矢沢永吉のことをずっとインタビューされてたという……。

北山 そうだね、やってたね。有名人とのインタビューは、あの時代が一番多かったんじゃないかな。最終的には、片山敬済(かたやま・たかずみ)さんをインタビューして、以後は、あんまりやってない。

――『写楽』では、けっこう、名前を出さないでインタビューの仕事をされてたんですか。

北山 やってました。雑誌『GORO』(小学館)でも、付録の「GO! ROCKING PAPER」 *2 の中で、けっこうやってましたね。

――当時、北山さんの話をお聞きして「インタビューというものは、朝起きたときから始まる」と言うことをおっしゃってたのが、すごく印象に残ってるんです。

北山 難しいよね、インタビューというのは。おもしろいものをとろうと思ったらね。その瞬間に、相手側と同じになってなきゃいけないわけだから。こちら側の心の状態が、もろ、向こうに反映することだってあり得るし、向こうの心の状態が、もろにこっちに反映することだってあり得るわけだから。で、どこまで聞いていいかってことは、なかなか限界が見えないでしょ。

――北山さんは、おもしろいインタビューで覚えているのには、どんなのがあります?

北山 俺が好きだった人はね、ベン・フォン=トーレスという、『ローリングストーン』 *3 の、今、もう偉くなっちゃった人だけど。

――ボブ・ディランも取材してる人ですね。

北山 そう、彼のインタビューは好きだった。ずっと好きだった。中国系アメリカ人なんだよね。上手だった、すごく上手だった。

――ディランとザ・バンドの復活全米ツアーをずっと追っかけてましたね。

北山 うん、ボブ・ディランとか、いわゆるロック・ジャーナリズムといわれるもののスタイルを確立した人だよね。あのスタイルで、たとえば『タイム』に原稿書いたりとか、そういうレベルにまでなっていっちゃった。だから『ローリングストーン』という雑誌が果たしたメディアに与えた影響というのは、大きかったと思うよ。ティム・ケイヒルというアウトドア専門のライターも『ローリングストーン』から出てるし、あと『アウトサイド』というアウトドア雑誌が『ローリングストーン』と同じスタッフで作られた時期があるよね。そういう雑誌が自分に与えた影響ってやっぱり大きいと思うよ。一番読んでた雑誌が、そういう雑誌。
あと、インタビューでおもしろかったのは、片岡義男さんが訳したジェリー・ガルシア *4 の本とかね。『自分の生き方をさがしている人のために』(1976年、草思社*1998年、新装版)。あれも『ローリングストーン』のインタビューの中のひとつだよね。それから、『レノン・リメンバーズ』だっけ? 『回想するジョン・レノン』(片岡義男訳、1974年、草思社*2001年、改訳決定版)とかいうタイトルになってる本があるよね。あれも『ローリングストーン』という雑誌に世話になった部分って、すごく大きいと思う。

――『ローリングストーン』は、当時、現役で読んでらしたんですか。

北山 そうです。『ローリングストーン』の日本語版を作りたいというのが、『ワンダーランド』 *5 (宝島社)の始まりだからね。日本における『ローリングストーン』を、とにかく作ろうじゃないかというんで集まったのが『宝島』*6 (宝島社)の始まりみたいなもので。結局、版権がとれなくて、日本語版はできなかったんだけどね。3号目から、『宝島』というかたちでトライはしてみたんだけど。読者と一緒に成長する雑誌というのをやりたかったから。
1970年代のあの当時はね、まだそれが可能な時代であったし、メディア自体が、今みたいに細分化されて、機械的に工場みたいなところで作るメディアには、なってなかったから。もうちょっと、大学のクラブ活動の延長みたいなかたちで、雑誌が作れてたから、生き物みたいな雑誌が作れるわけだよね。

*1 『写楽』…1980年代に小学館が刊行していたニュー・ジャーナリズム志向の写真雑誌。北山耕平は『写楽』の創刊スタッフだった。

*2 「GO! ROCKING PAPER」…『GORO』の付録として付いていた色彫りロック新聞。ベストセラー『日本国憲法』(1982年、小学館)を生んだ島本脩二らが編集。『ローリングストーン』を強く意識していた。

*3 『ローリングストーン』…ニュー・ジャーナリズムの発展に、最も貢献したロック・マガジン。1967年にサン・フランシスコで創刊された。

*4 ジェリー・ガルシア…サン・フランシスコ出身のサイケデリック・ロックバンド、グレイトフル・デッドのリーダー。

*5 『ワンダーランド』…津野海太郎と平野甲賀が中心になって編集した日本初のニュースペーパー・マガジン。植草甚一責任編集の名のもとに、2号まで出た。

*6 『宝島』…初期はペーパーバック・スタイルの雑誌で、「ロックンロールを子守唄に育ち、ビートルズで青春を迎えた緑色世代に贈る」というキャッチコピーが付けられていた。

北山耕平とフィル・スペクター


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