戸田真琴:少女と、かつて少女だったすべての人へ「君たちはおじさんたちに、心底舐められている」
切実で美しい言葉を手向けるAV女優・文筆家の戸田真琴。初監督を務める自伝的な3本の短編作品からなる『永遠が通り過ぎていく』(アップリンク吉祥寺にて4月21日まで)の公開に合わせ、SNS社会で生きる少女たちに向けた、書き下ろしエッセイを掲載します。
目次
SNSをやるくらいなら、日記を書くといい
春から高校生になる女の子から、私の撮った映画の感想をメールでもらった。とても冴えているひとで、むかしの自分を見ているようだ、と言うのもちょっと臆するくらい、感受性にきらめいていた。パンフレットにサインをしているわたしに彼女は、春からSNSを始めようか悩んでいたけど、やらないことにしました。という話をしてくれた。アクリル板越し、春の、ひみつの花びらのように。
私は、SNSをやるくらいなら、高校生である間毎日日記を書くといいよ、そしたら卒業する頃には本になるから。と言って、夜の案外治安の悪い吉祥寺の街へと出ていく彼女を見送った。
世界はめまぐるしい。とても悪い意味で、文字通り、最低なことばかりが毎日起こっていく。パーソナルな範囲でさえ生きることは苦痛の連鎖なのに、国全体でも、さらには世界全体でも想像を超えて酷いことばかり起きるなんて、逃げ場がなさすぎてなんのフィクションだろう、と思う。社会が、個人の力の及ばない範囲で野蛮なほうへさらに退化していき、個人の尊厳が破壊されてゆくこの大きな薄暗い螺旋に飲み込まれつつあるということが、シリアスな重みを持ってつねに脳の片隅でちらつくようになった。
それは自我の芽生え始めた中学生くらいの頃に、好きだったミュージシャンが売れるためにつまらない歌詞をかくようになっていくのを見ながら感じた絶望と、ずっと地続きに繋がっているものであるように思う。社会というのは、この大人たちの言う世界というのは、個人の営み、そこに流れる尊厳、付随する芸術、そういった値段のつかない尊いものよりもほんとうに優先されるべきなのだろうか? 個人の感受性は、漠然と大きな何か、社会だとか経済だとかのさまざまの都合によって壊されてもいいものなのだろうか?
君たちは、おじさんたちに、心底舐められている
ままならない社会の中を生きてゆく際に、個人が暮らしの丁寧さを見つめることで自らを癒してゆくことを推奨するのは、一歩間違えると現実逃避の推奨や政治・社会運動への無関心を助長する可能性があるので無責任にはできないけれど、今私は映画という芸術をスクリーンで流し、それを見てもらうという日々を毎日過ごしているところなので、そこに立ち上がる個人と個人の話を今日はしたいと思う。とくに、少女と、かつて少女だった人、そして心の中に少女が住んでいる人たちへ向けた芸術をつくり、これからもつくっていくのだと予感している者よりあらためて、白馬の王子のいない世界で、女の子の人生の話がしたい。
少女と、かつて少女であった君と、わたしへ。今、君たちは、社会に、権力をもったおじさんたちに、心底舐められている。ばかであることを望まれている。何も感じないでいろと、見えない声に言われている。そのうちのひとつが、スクリーンで流れる映画たちのなかに、きみの感受性を信用して放たれる風通しの良い芸術が、ほとんどないということである。
【これは「こういう物語」だから、きみは「こんなふうに」感じて、「泣いて/笑って/ときめいて/恐怖して」(このうち任意の1つを製作側が選ぶ)、ください。】という無言の注釈がついた作品ばかりだ。感じ方には正解と不正解があり、きっと君はSNSでどういう感想が流れているかをそっと調べてから、最大公約数の感想をなぞりながら、友達の顔色も伺いながら、恐る恐る言うでしょう。おもしろかったね、泣けたよね、どきどきしたね、俳優さんかわいかった/かっこよかったね、と。
君の悲しみはもっと鮮明に悲しかった
本来、作品の感想を書くことは、一番小さな芸術であり、かみさまへの返礼行為だ。
そしてそれ以前に、君が作品を見て何かを感じることができる、ということ自体が、人間に与えられた最初の祝福である。私はこんなつまらない世界で、私の偏屈で悲観的な脳みそをうっかりぶるぶる振るわせてくれた、作品たちに救われてきた。私がこれまで仕事で書いてきた映画へのレビューたちもみんな、それぞれまた作品だったのだとわかっている。あれらは、芸術の最小単位だった。
皆、何かに出会って感じてしまった、あの言葉になりようがない何かを、なんとかしてこの世界に書き留めようと、描き止めようと、歌い留めようと、掘り留めようと、縫い止めようと、語り留めようと、舞い留めようと、してきた。叶わなくてもそれを試みるということが、芸術という呼吸の、かけがえのない最初の小さなブレスだった。
みんなばかにされている。きみは本当はもっと、感じることができる。君の悲しみはもっと鮮明に悲しかった。きみの喜びはもっと狂ったようにまばゆかった。君の脳には、感性には、目や耳や鼓動には、もっとずっと価値がある。もっと君はいい。君はもっと、君の君として生きて良い。君の魂が腐らずに、美しく爆発四散して、この世界を照らすのが見たい。誰にも内緒で誰にでもできる最初の革命をはじめよう。もっと、[感じる]ということ。自分の魂の価値を、信じるということ。君はほんとうに、みんなが言うよりもっとずっといいんだ。それがそうとわかるように作品を作る。わたしにとって最初の映画はたまたまそういうものになった。これからはわざとそうすると決めた。私もう、そうすると決めた。
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