「女に土下座してまわる男」と呼ばれて──男性の自己省察と「モテたいだけだろ?」の呪縛(清田隆之)

2022.2.21
悩む男性

文=清田隆之 編集=田島太陽


男性がジェンダーやフェミニズムについて考えることには、どんな意味があるのか? 

「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信し、その執筆内容から「女に媚びるジェンダー優等生」「女に土下座してまわる男」などと言われてきた経験があるという清田隆之氏。

2021年12月に刊行した『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)などで多くの男性たちから聞いた話をもとに、「男らしさの呪縛」や男性の生きづらさ、そして男性性を内省的に振り返ることの重要性を考える。


名誉女性、男の自虐史観、男根大虐殺……

『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(清田隆之)
『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』

チンポ騎士団、名誉女性、男の自虐史観、女に土下座してまわる男、ものわかりのいいふりをするぶりっ子、女ウケを狙った男性学、小器用なフェミ武装、男の自傷行為、男根大虐殺、女に媚びるジェンダー優等生、勃起するフェミニスト、ホモソのチクり屋──。

これらはみな、私の書籍や記事にまつわるコメント、SNSで飛んできたリプ、あるいは友人知人との会話などで頂戴したことのある言葉たちだ。

語感からただならぬ怒気を感じるが、ポジティブな意味合いで言ってくれたものもあってすべてが批判というわけではないし、フレーズとしての見事さに思わず笑ってしまったものも多い。でもやっぱり傷つく。こういった言葉の奥底にあるものはなんなのだろうか。

2021年12月、私は『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社)という長いタイトルの本を出した。いわゆる“マジョリティ(=社会的多数派)”と目される、異性愛者でシスジェンダー(=割り当てられた性別と性自認が一致)で、会社や学校に属していて心身共に概ね健康で……というイメージに当てはまる一般の男性10人から身の上話を伺ったインタビュー集だ。

私がインタビュアーを務め、原稿も自分でまとめた。「聞き書き」と呼ばれるスタイルで、男性たちのお話はすべて一人称の語り下ろしとなっており、文中に私の質問や感想は一切挟まれていない。

DV、仕事の不安、尽きない性欲、マンスプレイニング…

男性たちの“自分語り”と聞いて、最初に思い浮かぶのはおそらく「自慢話」や「武勇伝」といったものだろう。学歴や仕事のアピール、実績やブランド自慢、酒や下半身絡みのエピソード、有名人とのつながりや過去のヤンチャ話……。あるいは逆に、自分はいかにダメな人間であるかとか、自分はいかにモテなかったかとか、失敗談や挫折話を含むマイナス方面の武勇伝なんかもよく耳にする。いずれにせよ、自分の“すごさ”をあの手この手でアピールするというのが男性の自分語りに付随するイメージではないかと思う。

しかし、本書に登場するのはそういったものとは少し手触りの異なる身の上話だ。それはどういったものなのか。私はあとがきでこのようなことを書いた。

男性は仕事や趣味、社会や経済など「自分の外側」にある問題については雄弁に語るが、感情や欲望、価値観や個人史など「自分の内側」にある問題についてはなかなか語ろうとしない。男性は内面を語る言葉を持たないと指摘されることも多いが、実際はどうなのだろうか。そこで、恋愛やジェンダーを含む個人的な身の上話を、著名人や研究者ではない一般の男性たちから聞いてみたいと思ったのだ。

『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』より

紹介されているのは10人の男性の人生録だ。妻に暴力を振るってしまって離婚した医療関係者に、コミュ力だけで出世したことに不安を抱えるエリートサラリーマン。飽くなき性欲に突き動かされる編集者もいれば、劣等感でマンスプレイニングしてしまう自分に悩む営業マンもいて……それぞれがそれぞれの事情を抱えながら生きていることが伝わってくる。

一方で、それぞれの話からは男性として生きるがゆえに抱えざるを得ない生きづらさや、いわゆる「男らしさの呪縛」のようなものも浮かび上がる。どの話にも思わず共感してしまうポイントがあり、聞きながら感情がせわしなく揺り動かされていた。そこで見えた問題は、自分と男性性の問題を扱った前著『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)とも通じるところが多かった。


「見たくない自分」や「見ないようにしてきた自分」

『さよなら、俺たち』
『さよなら、俺たち』

男性たちが聞かせてくれたのは、普段は他者に見せないような部分の話だ。人生の不安や下半身の悩み、DVの過去や義母への恨みなど……語られるエピソードには加害性や暴力性、あるいは差別的なニュアンスなども多分に含まれており、とても生々しい。

パートナーにバレたら離婚話につながるかもしれないし、職場に知れ渡ったら立場が危うくなるかもしれない。男友達にすら気味悪がられてしまう可能性もじゅうぶんにある。語ることにはハッキリいってリスクしかなく、そんな企画に付き合わせてしまって大丈夫だろうか……という葛藤が常にあった。

しかし、そういった部分には当人にとって重要な何か──押し殺してきた感情であったり、抱えているストレスの遠因であったり、癖や価値観の源泉となっているものであったり──が潜んでいる場合が多く、ある人は「最初は怖かったけど、話しながらいろんな発見があっておもしろかった」と言い、ある人は「自分の半生が言語化されたような気がしてとてもよかった」と言っていた。男性たちから意外なほど肯定的なリアクションをもらえたのは、私にとって非常にうれしいことだった。

最初から意図していたわけではないが、そこで生じていたのは「内省」や「自己省察」と呼ばれるものではないかと思う。内省という言葉を辞書で引くと、「自分自身の心のはたらきや状態をかえりみること」とある。

それらは「見たくない自分」や「見ないようにしてきた自分」でもあったりするわけで、直視することには苦しさやしんどさがつきまとう。そこには確かに“反省”や“懺悔”といったニュアンスも含まれるが、それはたとえば女性に気に入ってもらうため、女性にお詫びするために行われるものなのだろうか?

確かに「ホモソのチクり屋」かもしれないけれど……


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清田隆之

(きよた・たかゆき)1980年東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信している。 『cakes』『すばる』『現代思想』など幅広いメディアに寄稿するほか、朝日新聞..