戸田真琴:少女と、かつて少女だったすべての人へ「君たちはおじさんたちに、心底舐められている」

2022.4.19

ぜんぶ、男の人たちは知らなかったじゃない

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

SNSに流れる自撮りたちが愛されたいと叫んでいる。同じCANMAKEのアンティークルビーのアイシャドウをのせていても、同じカラコンを入れていても、その声は君にしか出せないたったひとつの声だということをわかっていて欲しい。本当は君は、他の誰とも違う。お金で買える王子様はハリボテだし、お金をくれるおじさまは君が人形ではなく生々しく艶めく虹色の魚だということに気づかない。気づいていないくせに卑しく食べ尽くそうとする。

絵本から王子様が消えた。君にはガラスの靴どころか、ルブタンどころかmiumiuどころか学校の上履きさえもない。白馬はいないし、ふたり乗りする自転車もない。君は、こんなにごつごつとした岩だらけの道を、裸足で歩いていくしかない。

今これを打っている私でさえ、この命の全てが少女であるとは言いきれない。いろいろなものが混ざってしまって、やっとここに立っている。だけれど、私にも少女としての私が全てだった頃がありました。画家たちははるか昔から少女を描き続け、写真家たちは少女をみずみずしく撮りました。少女漫画では何も持たない少女に恋のきらめきが付与され続け、少女の美しさや儚さを描いた映画も少しずつ生まれてゆきました。たしかにどれも美しかった。でもそのすべては、少女でない人の視点から見た美しさだった。

その身体の内側の煮えたぎる溶岩や、ずたずたの手首の傷口の中の赤血球や白血球、それでも傷を治そうと滲み出る組織液、ひらかれることの許可が降りない欲望の花が胸の中にあること、ぜんぶ、男の人たちは知らなかったじゃない。外側から一方的に観察して、儚くて美しいなんてうっとり言う人には、私の、君の、こんな儚くも可憐でもないどうしようもなさ、わかりっこなかったじゃない。

死んだように生きた方がまだましかもしれないのに

これは誰でもない少女のための話だ。わたしでもきみでもないし、わたしでもきみでもある。

見せて欲しいと言われる内臓と、見たくないと言われる内臓がある。どうして? ひどい内臓差別だ。私はすべての臓器があって生きている、全部でやっと1人分なのに。

否定された生臭さは必死で消臭して、何がそんなにいいのか本当はぜんぜんわかんない、彼に喜ばれる程度の人間らしさを希釈しながら差し出して、それできみの全部が好きとか平気で言われて、一瞬だけ嬉しかったりする、そんなとぼけた恋愛ごっこ。そういうのにずっと、傷ついていたんだ私たちは。ちょうどいい馬鹿でちょうど良い頭のよさで、ちょうどいいナチュラルメイクでちょうどいいスカート丈でちょうどいい顔、そうこのくらいの顔でいいんだよとか悪気なく言われて、自分で選んだわけではないもので価値を測られて、困って、本当は悲しかったのに笑ってしまったね。

校舎裏には誰もいないからキスだって拒めるはずなかった。少女漫画でしていたのとほんとうにこれがおなじやつ?と思いそうになる心を、好きって言われる安心感を大きく鳴らして誤魔化して、ときめいているふりをした。

少女漫画のヒロインはみんな初めて好きになった男の子と結ばれて、最終話で結婚するから、そうじゃない私は主人公じゃなかったんだね。と、涙もこぼさず少し虚無になる。君は、悪い女の子になってしまって、こんなわたしに構ってくれるなら少し殴られるくらいはべつにいいと思ってしまう。セックスに答えれば愛しているという体裁になるから、もっと難しいことをするよりそのほうがいい。おかしいな、と思ったことを、つい話してしまった時、信じられないほど伝わらなくて、その本音を胸の奥の奥のほうにあるひみつの箱の中に厳重に仕舞い込んだ。

私は、その箱を開けてしまうために映画を撮りました。その箱を開けたらすべてが変わってしまうこと、知っているのに撮りました。私はいじわるだからです。生きていくことは苦しいのに、知らない方がいいことばかりなのに、死んだように生きた方がまだましかもしれないのに、君の心からこぼれ落ちるだれもしらない朝露に、反射してしまう朝の光を、ただわたしが見たいがために、いじわるをしました。そのために撮ったのだと、今ではわかります。

私が予告する。きみの傷は、いつか光になってしまう

戸田真琴「少女と、かつて少女であったすべての人へ」(撮影=飯田エリカ)

ごめんね。生きることは苦しいです。王子様はいません。君のすべてを愛してくれる人は未来永劫現れないかもしれないし、これまで理不尽につけられてきた、つけられたことさえ覚えていないほど昔からの傷も全部、なかったことにはならないのに、そのぼろぼろの身体からあたらしい身体へ、乗り換えることもできない。絆創膏みたいな音楽も、塗り薬みたいな友達の言葉も、本当に全てを治すことはできない。

だけど、君だけにとって、その傷には意味がある。そこがちょうど芸術と共鳴するとき、スクリーンの中と同じように、ちょうど同じように、傷口が光り始めるときがくる。私の撮った映画とじゃなくてもいい、どこかの誰かの撮った光が、君の傷に見えるときが来ます。生きて、いろんな作品を、見続けるとそれがやってくる。

きみの傷は光だった。ふざけていると思うでしょう。だけれど、私が予告する。きみの傷は、いつか光になってしまう。だから君のそのやわらかい両脚が、この最低な世界のごつごつした足場を踏んでいかなければいけないことを、本当に私も一緒に痛いと感じるけれど、それでもその先にある黄金を探そう。私も探すので、いつか見せ合おうね。


映画『永遠が通り過ぎていく』(監督:戸田真琴)

出演:中尾有伽、竹内ももこ、西野凪沙、白戸達也、國武綾、五味未知子、イトウハルヒ
監督・脚本・編集:戸田真琴
劇中歌:大森靖子
音楽:AMIKO/GOMESS
公開:アップリンク吉祥寺にて公開中(4月21日まで)

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