追悼文「筒美京平さんと私」(西寺郷太)

2020.10.19

文=西寺郷太 写真(西寺郷太)=山口こすも
編集=森田真規


2020年10月12日、作曲家の筒美京平さんが10月7日に誤嚥(ごえん)性肺炎により亡くなっていた、というニュースが日本全国を駆け巡った。

歴代作曲家シングル総売上1位の記録の持ち主であり、1960年代から2000年代まで5代連続でシングルチャート1位を獲得するなど、長きにわたって第一線で活躍しつづけた日本を代表するメロディメーカーのひとりだ。

自らのバンドNONA REEVESで2曲のシングルのプロデュースを受け、近藤真彦「情熱ナミダ」では作詞家として筒美さんと共作した経験を持つ西寺郷太さんに、いちリスナーとして、そしてミュージシャンとして、筒美京平さんについての想いを綴っていただいた。

近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』を手にした、1981年のクリスマス

親に初めて買ってもらったドーナツ盤3枚のうちの1枚が、筒美京平作品だった。1981年のクリスマスのことだ。小学2年生の僕は「サンタクロースがくれるプレゼント」の代わりに自分で7インチのレコード3枚を選ぶ権利を母親から獲得。

近所のレコードショップで長時間吟味した上で、田原俊彦さんの『グッドラックLOVE』、イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』、そして「作詞・伊達歩、作曲・筒美京平、編曲・馬飼野康二」という最強チームの名が記された近藤真彦さんの『ギンギラギンにさりげなく』をチョイスした。

そのときの僕はもちろん、自分のバンドが将来、筒美京平さんにプロデュースしてもらったり、そのあと京平さんとコンビを組み、近藤真彦さんの作品に作詞家として携わることなど知る由もない。

幼少期は、たいてい皆同じようなものだろう。テレビの中から鳴り響くヒット曲が自分の世界を包む音楽のほぼすべてを占めていた。今、改めて京平さん(「先生」とは呼ばないでほしいと御本人から言ってもらったので、この呼び方に統一します)の手がけられたシングル群のリストを見ると、僕が『ザ・ベストテン』など歌番組でのイメージを強烈に覚えているスタート地点は、5歳のころ。1979年に大ヒットしたジュディ・オングさんの「魅せられて」あたりから。

もちろん、京平さんが作曲・編曲を手がけられた国民的アニメ『サザエさん』のオープニング、エンディング・テーマを含め、意識せずとも彼の洗練されながらも親しみやすいメロディは、僕ら世代の日本の子供たちにとって、ある種の「義務教育」のように柔らかく降り注いでいた。

京平さんの影響で貫くようになった作曲家としてのスタイル

1980年、僕が小学生になった年に田原俊彦さん、松田聖子さんがデビュー。その年の12月12日に近藤真彦さんが「スニーカーぶる~す」で衝撃的に登場。若さに満ちた彼らのブラウン管の中での活躍で、アイドル歌謡の景色は刷新される。

その翌年、作詞家・湯川れい子さんとコンビを組んだ松本伊代さんのデビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」でも京平さんは爆発的なヒットを飛ばす。以前、湯川さんの熱海の別宅にプライベートで誘っていただいたとき、湯川さんが「『センチメンタル・ジャーニー』は、私に珍しく『詞先』だったのよね」と仰ったので驚いた。湯川さんが書かれた「伊代はまだ 16だから」という天才的キラー・フレーズもさることながら、その言葉にあまりにも自然でキャッチーなメロディを乗せたその作曲家としての技に仰天したのだ。

湯川さんはさらに「もともと、ほとんど『詞先』はないんだけどね。京平先生だけよ、私の『詞先』の歌詞を一語一句変えずにメロディつけてくれたの。ほかの人は、ここもう少し足したいとか、削りたいとか言われるんだけど」とつけ加えられた。それからというもの僕も「詞先」で作詞家から歌詞をもらった場合、作曲家として絶対に一語一句変えないスタイルを貫くようにしている。

燦然と輝くポップスの目標地点「抱きしめてTONIGHT」


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