「女性のほうが育児に向いてる」は間違い? 4児の父親が考える“母性”への違和感【#12後編/ぼくたち、親になる】

文=稲田豊史 イラスト=ヤギワタル 編集=高橋千里


子を持つ男親に、親になったことによる生活・自意識・人生観の変化を、匿名で赤裸々に独白してもらうルポルタージュ連載「ぼくたち、親になる」。聞き手は、離婚男性の匿名インタビュー集『ぼくたちの離婚』(角川新書)の著者であり、自身にも2歳の子供がいる稲田豊史氏。

第12回は、“実験”のために子供を4人作ったという50歳男性。育児中心の生活の中で、「母性」について感じることがあるという。

※以下、田野井さんの語り

「専業主夫」に抵抗がない

僕はひとりっ子ですが、2歳から4歳くらいまでの間は、ほとんど父に育てられました。

うちの父はけっこうフラフラしている人でして。学生時代は演劇にかぶれ、卒業後も就職せず、見かねた伯父があてがってくれたお店の雇われ店長として、しばらく働いてたんです。

母とはほとんどナンパに近いかたちで知り合い、父としては結婚する気はまるでなかったけど、母に押し切られて結婚したそうです。

そういう父ですから、仕事は長続きしない。僕が小さいころもそんな感じだったので、母からは「だったら子供の面倒を見ててよ」と。ただ、社会人としてはダメ男だったけど、まめで家事はなんでもこなせるし、料理も作れる人でした。

僕は父のそんな姿を見て育ったので、今、男である自分が一手に育児や家事を担っていることについては、なんの抵抗もありません。僕の世代では珍しいかもしれませんね。

「母性」と「当事者性」を履き違えるな

第一子誕生以降、育児は基本的に僕の担当です。保育園の送り迎えも、ワンオペの食事も風呂も、4人分やっています。その点は、ほかの家の専業主婦の方と違いはないでしょう。4人もいると、小さいころに予防注射をそれぞれ連れていくのが大変、といった「子供多いあるある」もひととおり経験しました。

その経験を通じて、強く思うことがあります。女性に固有とされる「母性」、あれにまつわる言説って相当眉唾ものですよ。

※画像はイメージです

よく、男女の性差的な文脈で「お父さんは、赤ちゃんが夜中に泣きそうになっても気づかない。お母さんは気づいて目が覚める」とか言われるじゃないですか。でも、あれって脳の性差というよりは、単に当事者性、意識の高さの問題だと思うんですよ。

僕はもともと子供が嫌いな人間ですし、特に女性性が高いとも思わないけど、2年ごとに赤ちゃんがいた時期は、隣でほんのちょっとでも動く気配がしたら、「ほぎゃっ」て泣き出す直前に目が覚めていました。その子のすべてを握ってるのは自分だという責任感があるから。それは性差じゃない。

寝室で一緒に寝ている理菜のほうが、明らかに「気づかない」けど、批判するつもりはありません。これは役割分担です。妻は連日鬼のように働き、家計を支えている。赤ちゃんに関しては、僕がやってくれると思っている。それでいい。

「うんちをしても、パパは気づかない」って愚痴も世間のママからよく発されますけど、当然ながらうちの場合、妻より僕が先に気づく。子供とのコミット量、接触時間が理菜より僕のほうがずっと長いので、当たり前です。

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だから男性が「母性ってすごいね」と言ってるのを聞くと、イラッとします。違う違う、性別固有の能力差じゃないよって。経験値でしかない。母性でもなんでもない。

だから、母性を根拠にした「女性のほうが育児に向いている」は、明らかに間違いだと思います。

「完母」だと父親が育児できない

ただ、生物学的に女性がおっぱいを持ってるのは、強い。強すぎると思います。母乳を出せる人に、男は絶対に勝てません。これはズルい。

だから、もしお父さんとお母さんが子供を「一緒に」育てたいんだったら、完母(完全母乳)は絶対にだめです。

完母に慣れた子供はミルクを絶対に飲みません。母親が常におっぱいをあげてないといけなくなるし、常におっぱいのストックを用意しておく必要もある。

つまり母親不在では乳幼児の世話ができない。あるいは、かなり制限されてしまう。一緒に育てたいんだったら、最初から母乳とミルクの混合、または完ミ(完全ミルク)とすべきです。

だから、もしお母さんの強い希望で完母を選ぶんだったら、生まれてから最初の1〜2年にお父さんが育児しないのを責めるのは、やめてほしいです。個人的には、完母信仰はヤバいと思います。妻にそういう信仰がなくてよかったですよ。

※画像はイメージです

あと、これは持論というか経験則ですが、おっぱいに頼る女性のほうが、むしろ抱っこは下手だったりします(笑)。男はおっぱいに頼れないから、抱っこだけで赤ちゃんをなだめる技術がめちゃくちゃ向上するんですよ。

自分は意外と人間的だった

30代も後半になれば、人生全体の見通しもだいたい立ちます。僕はその時期に子供を作ったことで、人生が確実に「味変(あじへん)」しました。実験による子作りによって、探究心と知的好奇心も大いに満たされました。

父親になった男性の中には、子供を作った理由として「自分の遺伝子を残したかった」とか「自分の死後も子供という存在に自分の一部を継承した何かが残ることは、救いであり希望である」みたいなことを言う人がいるじゃないですか。この連載の過去回にもいましたよね。

それ、まったくわかりません(笑)。自分の何かを、自分が死んだあとに残したい? 一切、ありませんね、そんな気持ち。自分が死んだあとなんて、どうでもいいでしょう。考えたこともない。理菜も同じだと思います。

遺伝子云々という話も、たしかに僕の遺伝子は優秀なので(笑)、残してもいいかもしれません。でも一方で、「実験」として子供を作ろうなんて発想する人間が、遺伝子を残しちゃいけないんじゃないか、とも思います。そこはもう、客観的に。

僕はもともと子供が嫌いだったし、今でもむしろ好きではありません。ただ、子供を持って初めてわかったことがあります。自分は意外と人間的だったんだなと。

子供が生まれてみて、子供の幸せについて考えている自分に、僕はびっくりしたんですよ。こんなこと、予想もしていなかったので。たぶん妻もです。夫婦で動揺してるんですよ。こんなに子供が大事になるなんて。

「実験」のために子供を作ったのは確かですが、子供たちには「うちに生まれて運が良かったな」と思ってもらいたいし、そう思ってもらえるように育てたい。

だから、子供たちから「なんで産んだの? 産んでほしくなかったよ……」と言われないためにはどうすればいいか、いつも考えています。もともと塾では、生徒たちにとってできるだけマイナスが少ない未来を与えたい、というスタンスで教えていましたから、その延長ではあるのでしょう。

この気持ち、「子供嫌い」と矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、僕の中ではまったく矛盾していないんですよ。

わかります?

「顧客」としての子供

※以下、聞き手・稲田氏の取材後所感

【連載「ぼくたち、親になる」】
子を持つ男親に、親になったことによる生活・自意識・人生観の変化を匿名で赤裸々に語ってもらう、独白形式のルポルタージュ。どんな語りも遮らず、価値判断を排し、傾聴に徹し、男親たちの言葉にとことん向き合うことでそのメンタリティを掘り下げ、分断の本質を探る。ここで明かされる「ものすごい本音」の数々は、けっして特別で極端な声ではない(かもしれない)。
本連載を通して描きたいこと:この匿名取材の果てには、何が待っているのか?

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稲田豊史

(いなだ・とよし)1974年愛知県生まれ。ライター・コラムニスト・編集者。映画配給会社、出版社を経て、2013年に独立。著書に『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ──コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の..

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