東出昌大「この先、生きていけなくね?」──そんなとき“救い”になった2冊とその理由:人生相談連載「赤信号を渡ってしまう夜に」

取材・文=安里和哲 撮影(TOP画像)=西村 満 編集=菅原史稀


「こんな時代だからこそ、もっと話したほうがいい」

連載「赤信号を渡ってしまう夜に」では、俳優・東出昌大が読者から寄せられた人生相談について対話していく。

第7回では「困ってる人を放っておけない悩み」を抱える女性と、「生きる意味がわからない」と悩む方の相談に応答。ふたつの悩みは思いがけず共鳴し合い、対話はより深まっていった。

【連載】赤信号を渡ってしまう夜に(東出昌大)記事一覧

#1:「大人ってちょっとずつ、建前のルールを破る」
#2:「仲よくなりたい相手には、利益を与える必要がある」
#3:“推し活”に思うこと「でも、好きになっちゃったらしょうがない」
#4:濱口竜介監督に伝えた「僕、この気持ちはわかりません」──映画に“正しさ”を求めるべきか?
#5:東出昌大のタバコ論と“意識低い系”でいたい理由
#6:東出昌大が考える“夫婦間のセックスレス”問題

利他的に動くためにも余裕が大事

Letter No.13
困っている人を放っておけない性分です。 話を聞いた上で自分に出来る事を探して「ここまではできる」「これ以上は私には力になれない」を判断していますが、話も全力で聞いてしまう為、結局物理的に疲れてしまいます。年齢的にもキャパ的にも限界を感じていて消化が難しくなってきました。

頭では「自分を疎かにしたら人に優しく出来ない」とわかっていても、身体が動いてしまいます。良く言えば「皆が頼ってくれる、助けを求めてくれる」悪く言えば「いいように利用されてる」となります(これはいつも主人に言われている事です)。

主人、長男、長女、それぞれが私を取り合うイメージで「(私と)2人で話したい」となり、物理的に身体はひとつなので、物理的に時間取れない為、伝えると結局家族内のストレスとなり、不穏な状態となります。 

私を頼ってくれるのは喜ばしいことと前向きに受け止めたいです。これは本心です。家族、同僚には「話を聞くからそうなる、話を聞かなきゃいい」と言われてます。短絡的に考えたらそうかもしれません。でも困っている人がいたら手を差し伸べてしまいます。が、それは体力的に安定してる時の話で、自分を二の次にする事に繋がってるのでは?と、よくわからなくなってます。気分転換するという発想も身体が動かないくらい疲弊してます。自分を大切にするとはどういう事か、東出さんの考えをお聞きしたいです。

この連載で繰り返し強調していることですが、僕が相談者さんの悩みを100%わかることは絶対にできません。その前提で聞いてほしいのですが、僕はこの相談者さんの気持ちはとてもよく理解できます。僕も、人を放っておけなくて疲れてしまうときがあるんですよね。

でも今はそれほど悩んでいません。その理由は、これも繰り返しになりますが、「個は個である」と思えているから。相談者さんは「良く言えば『皆が頼ってくれる、助けを求めてくれる』」と解釈されていながらも、ヨソでも家でもみんなから必要とされる状況に、かなり疲弊されている。だからなんとかして「自分は自分、人は人」というところに立ち返れたらいいですよね。

究極的には、人のことなんて放っておいても大丈夫なんですよ。それは人を突き放すっていうことではないから、安心してほしいです。

具体的にどうすれば、自分のことを大切にできるんでしょうか。

まずは一番身近なご家族に、自分の今のしんどさを伝えることが大事だと思いました。夫も、ふたりの子供も、みんな相談者さんのことを信頼しているというベースがあるから、頼ってくれているわけですよね。

ということは、もし相談者さんが「もう私、ちょっと限界だから。求められ続けても、体力的に応えられない」と言いきってしまえば、ある程度理解してくれると思います。子どもの年齢はわかりませんが、人間って小学生になれば、ある程度自分のことはできるものだし、自分で考える力もついてくる。「お母さん、大変そうだな」と思ったら、子供なりに考えて、変化するはずです。

そこは子供たちの自立性も信じながら、少しずつ子供たちの主体性に委ねていけたらいいですね。

うん、そう思います。無責任だと思われてもいいんですよ。家族に言えたら、そのあとはまわりの人にも「このままじゃ自分はパンクするんだ、だから休むんだ」って言いきってしまう。それで休んだとて、人に嫌われるなんてこともないですし。

うーん、「無責任」って言ってしまったけど、ちょっと言葉が違ったかな。そもそも、人は誰かに対して責任を負う必要がないと僕は考えています。それは「個は個」だから。究極的には、人は他人のことに責任を持てない。そう思いますね。

頼られる状況から、一度離れるためにも、「自分は今つらい」ということを伝えるしかないですね。ただ、これまで人に必要とされることで自分の存在価値を感じてきた方だとして、そこから降りるのは相当勇気がいるだろうなとも、想像します。

そうですね。たしかに人間は誰かのためになること、つまり利他的に生きることに喜びを見出す生き物です。そうやって他者のために働くことで、利己的な自分から離れる。それが苦しい現世から解き放たれることなんだと、以前読んだ仏教の本にも書いてありました。

だから基本的に、この相談者さんの「困っている人を放っておけない」という気質は利他的で、それ自体はとてもいいことなんですよね。だけど、やはり程度問題というか。自分を大事にしないと疲弊して、結局人にお世話をすることもできなくなっていく。

なので、まずは休めるように、まわりに「ちょっともうムリ!」と宣言してみてほしいです。そうやって自分を大切にすることで、また利他的に動いてみようって余裕も戻ってくるだろうから。

生きる意味はないけれど、なぜ生きるのかといえば

Letter No.14
生きる意味、自分の存在理由がわかりません。東出さんも生きづらい時期があったと思うのですが、その時に読んで救われた本を紹介ください。

「生きる意味」はない、というのが僕の暫定的な立場です。それは自分がひとり死のうが世界はほとんど変わらないから。人類の歴史、全生物の命、地球が誕生してからこれまでの時間で考えると、 自分が生きてようが死んでようが差異はない。残酷なようだけど、そんなもんです。

人間以外の生き物は、おそらく生きている意味なんて考えない。生きている意味がなくても、生きようとするのが、動物です。

そう言われても、生きる意味や存在理由への問いが止まらないなら、さっきの相談の続きじゃないけど、利他にすがればいいんじゃないかなと思います。

誰かのために何かする。人に感謝されると気持ちいい。そうやって「やってよかったな」と満足できることが、幸せってことなんだと思います。でもここで、他人の感謝に執着してしまうと疲弊してしまう。

「個は個である」と思いながら、利他の精神で生きる。そこはバランス感覚といったら身もふたもないけれど、自分が他者のために生きている状況に、どれだけ充足しているか。自分の心と体にちゃんと目を向けつつ、利他的に生きられたらいいですね。

「東出さんも生きづらい時期があったと思うのですが」という箇所はいかがですか?

相談者さんの言っている「僕が生きづらかった時期」と「生きる意味」は、全然違う話です。

僕は以前「お前の人生、もう詰んでるぜ」と仕事関係者に言われたことがあった。内側から湧き起こる「生きる意味」への疑問と向き合うんじゃなくて、外側から僕の生を否定されていたんです。生きる意味っていうか「この先、生きていけなくね、これ」って状況ですよね。こんななかでもどうやったら前を向けるのか。そういう悩みでした。

そんな状態でも、本は救いになりますか?

なりましたよ。本はめっちゃ読んでたんです。いまパッと思い出したのは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』と、五木寛之さんの『大河の一滴』ですね。

『夜と霧』は、ユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルが、強制収容所での体験を書いたノンフィクションです。

この本でフランクルが書いていたのは、人間のしぶとさでした。不衛生な環境で、寝られないし、食えない。それでも働かされる。そんな極限状況でも、絶望せず、希望を見出すのが、人間だと。フランクル自身あんな過酷な状況を経験したのに、「人間に無理はない」と書く。「マジかよ。人間ってそこまでしぶといのか」と奮い立たされました。

ただ、他者のつらい体験を読むことで勇気をもらうことが、倫理的にどうなんだという点は悩みました。今のところは「過去の出来事ならばいい」という結論にひとまず至っています。同時代で苦しんでいる人の体験を、自分の生きるエネルギーにするのはダメだろうと。これはまだ考え続けている問題ではありますけどね。

『大河の一滴』はいかがでしたか。

一人ひとりの人生なんて大河の一滴でしかない、と言われて、自分がちっぽけに思えて、むしろ生きるのがラクになりました。

五木さんは少年時代に朝鮮に渡り、戦後引き上げてきた方ですが、そのときに見た、人間の汚い部分を書いています。子どもたちがかじっているパンを奪い取る大人の姿を思い出し、生きるのに必死なとき、人がかくも残酷になると。

ところが、そんな地獄を経験した五木さんですら、最近はイタリア料理屋でオリーブオイルの質をあれこれ話していると、今の我が身を振り返るんです。この振り幅というか、人生を測るものさしのスケールの大きさにも、圧倒されました。

これは書けるかわかんないですけど、この相談者の方は、断食とかしてみるといいかもしれない。食べずに数日過ごして、腹が減りまくって、そこで、「もうダメだ!」と米を食べてしまったとき、どんな感情になるのだろうか。

そこでわかるのは、生きる意味じゃなくて、結局のところ、生きようとしてしまう自分の命のあり方なんじゃないかな。

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