東出昌大が濱口竜介監督に伝えた「僕、この気持ちはわかりません」──映画に“正しさ”を求めるべきか?:人生相談連載「赤信号を渡ってしまう夜に」

取材・文=安里和哲 撮影(TOP画像)=西村 満 編集=菅原史稀


「こんな時代だからこそ、もっと話したほうがいい」

この人生相談「赤信号を渡ってしまう夜に」では、俳優・東出昌大が「すねに傷のある僕にしか話せないこと」を募集し、応答していく。

連載第4回では、「映画や本に“正しさ”を求める友人」や「パートナーとのスキンシップ」への悩みに答えていく。

蔓延する批評家しぐさの弊害や、映画『寝ても覚めても』の現場であった監督・原作者とのやりとりなど、豊かな脱線にも注目だ。

【連載】赤信号を渡ってしまう夜に(東出昌大)記事一覧

#1:「大人ってちょっとずつ、建前のルールを破る」
#2:「仲よくなりたい相手には、利益を与える必要がある」
#3:“推し活”に思うこと「でも、好きになっちゃったらしょうがない」
#4:濱口竜介監督に伝えた「僕、この気持ちはわかりません」──映画に“正しさ”を求めるべきか?

東出流・心の鍛え方

4回目の人生相談ですが、ここまでの感想を聞かせてください。

悩みが細分化しているんだなと思いますね。悩んでいる当人は切実なんです。でも、ぜいたくといったらキツすぎるかもしれないけど、時代が煮詰まりきった末の悩みが多い気がする。

そのぜいたくさってどういうことですか?

日本ってここ何十年もずっと便利な国ですよね。食べるものひとつ取っても、24時間常に手に入れられる。そのせいで自分で動物を獲ったり、野菜を育てたりする生活をしていたら、こんなこと考えてらんないよねっていう悩みが日本にはあふれている。僕が山に住みながら狩猟をするようになったからよけいにそう感じるのかもしれない。

多くの人が「そんなことで悩んでんの?」という問題に煩わされて、本質的な問題から目を逸らされている。もっと心を鍛えてみてもいいんじゃないかな。

心を鍛えるっていいですね。最近は心の痛みに寄り添うことが強調されていて、その反動でそもそも傷つかないために自分の心を鍛えるにはどうしたらいいのかという部分がなおざりになっている気がします。

そうかもしれない。みんな意外とやってないんだけど、心って鍛えることができるんですよ。

東出さんの、心の鍛え方を教えてもらえますか。

まずは、本を読むことですね。読書をしながら、心や感情ってどういうものなんだろうって押し黙って考えてみる。別に本だけじゃなくて人の話を聞くのでもいいと思う。

本や人の話を通して、自分が今ぶち当たってる悩みから少し距離を置いて、心や感情そのものを俯瞰して分解しながら順序立てて考えてみる。とにかく悩みを分解して、分解して、それを繰り返して考えれば心は強くなります。心の腕立て伏せとか腹筋みたいな感じでやってみていいと思う。

東出さんは時間を取って、心のトレーニングをするんですか。

そうですね。でも瞑想とかはできないタイプなので、歩きながら考えてます。電子機器は持たず、音楽も聞かず、ただただ歩いていると思考が冴えてくるんです。家で考えようってすると、やっぱり抑うつ的な気分に落ちてしまうから、散歩はおすすめですね。これだけでも心は鍛えられます。

前置きが長くなってしまったので、そろそろ人生相談を見ていきましょうか。

批評のまねごとはやめて、自分で考えてみよう

Letter No.07
私には10年近い仲の友人がいます。彼女とは気が合うだけでなく、映画や本の趣味が近いこともあって、遊ぶときは「最近これが面白かったよ」と情報交換をする仲になっています。

最近、彼女は「○○(私たちが好きなアーティスト)のあの発言は政治的に間違っているから、もう応援するのをやめる」「あの映画はあのシーンの描き方が差別的だった。あの作品を好きと言う人の気が知れない」というようなことを言うようになりました。私も差別を助長するようなことは反対なので同意しつつ、だんだんと彼女の前で、最近面白いと思った作品を言うのが怖くなっています。映画を観ているとき、本を読んでいるとき無意識に「どこかに問題がないか」と、作品を楽しむより間違い探しをしているような気分になっています。

東出さんは、映画や本などを評価する上で、作品に「正しさ」を求めますか?

またご自身も作品に携わる身として、ご自分の信条に反する表現などが出演作にある場合はどのように対処されるのかも聞きたいです。

友人の思考を変えることはできないから、ご自身の感情を分析して、彼女との付き合い方を見直すしかないですよね。彼女とのコミュニケーションがなぜ怖くなってきたのか、もっと深掘りしてみてください。10年来の友人を恐れながら付き合い続けることが、自分の生きる意味とか生きる目標にどういう関係があるのかを徹底的に分解して考えてみる。そのうえで、彼女とどういうスタンスで付き合うのか決めたらいいんじゃないかな。

僕への質問に移ると、受け手として「正しさ」を求めることはないです。だって、絶対的に正しいことなんてないから。よく言われる「正しさ」って、自己の範疇で問題がないとか、自分が傷付けられずに済むくらいのことだと思うんです。

でも僕の経験上、今の自分の価値観では許せない表現にモヤモヤしたり、「あの映画なんか気持ち悪かったな……」と思ったりすることもすごく大切な経験でした。

僕はむしろ自分の理解の範疇を拡張してくれる表現こそが芸術だと思っているんですよ。自分の手持ちの価値観で「良いか悪いか」を即断できる作品よりも、自分の価値観を揺さぶってくれる作品のほうが大事。

みんなもっと自分自身で作品にぶつかって、怒ったり傷付いたりしたほうがいいと思うんです。批評家のマネ事をしすぎると真正面からぶつかることができなくなる。

批評家ですか。

今の批評って「正しいか否か」「良作か駄作か」を手っ取り早く判断するために行われているじゃないですか。映画レビューサイトに並ぶ言葉もそういう傾向がある。あまつさえそういうインスタントなレビューを参考にするような映画製作者もいて、うんざりするんだけど。

僕も映画を観た帰り道に、スマホを取り出してSNSで感想を検索して、どういう意見が大勢を占めているか、どういう感想なら浮かないかを考えてる時期がありました。

それもきっと不安だからですよね。自分の価値観が間違っているんじゃないかって。

でも、芸術に触れるってそういうことじゃない。それこそ映画館からの帰り道、ひとりで作品のことをあれこれ考える時間を過ごすこと。即座に「良い/悪い」と価値判断をして思考を止めるんじゃなくて、長い時間をかけて味わうこと。それが芸術を鑑賞するよさのひとつだと思う。

ビジネスの場では即断即決も重要ですけど、アートとかエンタテインメントにせっかく触れるなら吟味していきたいですね。

うん。あと、そもそも批評ってすごく難しい行為だと思うんです。

作品へのリアクションって必然的にワンテンポ遅れるじゃないですか。映画だって公開時には、製作から1年経っていることもザラで、僕らが舞台あいさつに立っているころには出演者もスタッフも次の現場にいる。

映画人はそういうスピード感と熱量で作品を作っているので、そこに批評が食い込むためにはよほど練られた言葉じゃないと届かない。SNSでお手軽に何か言っても、それだけで文化に貢献するのは難しいと思う。

『寝ても覚めても』で言いたくなかったセリフ

「信条に反する表現などが出演作にある場合はどのように対処されるのか」という点についてはいかがですか。

そもそも脚本をいただいてから考えることがほとんどなので、ホンがおもしろいと思えなければ出演しないし、出演するならいちいち口を出さないです。出演作に役者が信条を反映させる必要はないと今は思いますね。

「今は思う」ということは、逆にいうと、信条を反映させたいと思ってた時期もある?

そうですね。たとえば『寝ても覚めても』っていう作品をやったときは、濱口竜介監督と議論したことがありました。

東出さんが亮平と麦の一人二役を担った作品ですね。

はい。亮平は朝子と同棲していたんだけど、朝子は麦のもとに行ってしまう。だけど朝子が亮平のもとに戻ってくるんですね。このシーンで亮平は「どのツラ下げて来とんねん」と突き放し、一緒に飼っていた猫のことも「猫、捨てたで」と言い放つ。

でも僕からすると、一緒に暮らしていた猫を、恋人が去ったからといって捨てる男が信じられなくて。濱口監督に「僕、この気持ちはわかりません」と伝えたんです。原作者の柴崎(友香)先生も僕と同じ考えで「亮平はこんなことをする人間ではないです」とおっしゃった。

結局、この映画ではそのあと朝子が猫のジンタンを雨の中河川敷に探しに行きますね。結局、見つけられず、亮平のいる家に戻ると、彼がドアの向こうからジンタンを差し出す。

そうそう。議論を経て、セリフは残しつつ、その後の筋のほうを変えたんです。当初の脚本では、猫のジンタンを本当に捨ててしまって最後まで不在で終わる予定だったはず。

なるほど。結果的に、ジンタンの声を聞くと朝子のことを思い出してつらくなるから、いっそのこと捨ててしまいたいという亮平の傷心と、それでも捨てられなかった優しさのようなものが両立していますね。監督と原作者と役者の対話が、いいかたちで実ったんですね。

結果的にはそうなりましたね。たしかに原作者の意見は絶対に尊重されるべきです。でも、役者は「このセリフは自分の信条と反するんで言いたくない」では通用しない。自分の信条を現場で発することは、今はしてないですね。

相談は続く

Letter No.08
東出さん、はじめまして。30代前半の既婚女性です。連載楽しく読んでいます。

20代後半のときに今の夫と結婚し、一昨年に第一子が生まれました。性別は男の子で、もうすぐ2歳になります。生まれてからずっと、息子がかわいくて仕方ありません。話せる言葉が増えたり、遊びの幅が広がったり、息子の成長を感じるたびに愛おしさを感じます。

その一方で、悩んでいることがあります。夫への感情です。出産前までは夫のことが恋愛対象として大好きだったのですが、出産してから夫への恋愛感情が消えてしまいました。

夫は家事・育児にも積極的に関わってくれて、趣味や話も合い、家族間に何か問題が起きたときは一緒に解決策を考えてくれる、良いパートナーです。

だけど、出産前のような「好き!大好き!」という盲目的な激しい恋愛感情が、私の中で消えてしまったのです。愛情のほとんどが息子に向いてしまったためか、産後のホルモンの影響なのか、わかりませんが……。

夫からスキンシップを求められても生理的に拒否してしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。ただ、だからといって夫以外の人と関係を持ちたいとか、そういう気持ちは一切ありません。恋人が同棲を始めたり、結婚して子供が生まれたりすると、関係性が“家族”に変わってしまうという話はよく聞きますが、割り切って日々を過ごすべきなのでしょうか。私の中での小さな不安と、夫の中での小さな不満が、いつか大きく膨らみ、爆発してしまわないか心配です。

これは難しいですね。この文章だけだと読み取れないことがたくさんあります。

たとえば「夫からスキンシップを求められても生理的に拒否してしまい、申し訳ない気持ちになる」と書いてありますが、ご自身が夫とスキンシップを取る代わりに、夫がヨソでそういう欲求を発散するのは許容できるのか?とか聞いてみたいです。あと、そもそも旦那さんとは信頼関係が築けているのに、なぜ恋愛感情がなくなったことは打ち明けられないんだろう、とか。

いろいろ追加で聞いてみたいことがあります。なので可能であれば、今僕が言ったようなことを改めて考えてもらって、返信をいただきたいです。

では、この質問は継続ということですね。

そうですね。せっかく連載でやっているので、こうやって相談を続けていくスタイルもアリだと思います。

この記事の最初で言ったように、ちょっと外を歩きながら、問題を分解して考えてみた上で、また気が向いたらご連絡ください。

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