批判の対象になっているのは男性たちではない
ツイッターのアカウントだけでは究極的にはわからないが、擁護派のほとんどはおそらく男性だと思われる(という私の独断と偏見でここからの話を進めます)。その中には作品のファンもたくさん含まれているだろうし、広くアニメファン、あるいはフェミニズムに対して反感を抱いている男性も含まれているかもしれない。
そういった男性たちが反対派(こちらは主に女性だろう)の声に対し、異論や反論を述べたり、引用リツイートで嘲笑してみせたり、より直接的にリプを飛ばして議論や罵倒を投げかけたりしている景色が散見される。
その中には「男性=論理的/女性=感情的」という旧来的な思い込みで、女性からの批判に対して「ヒステリック」と揶揄する声がいまだにある。
しかし、そんな“男性”たちのモットーとされるフラットかつ論理的な視点で考えてみると、反対派が批判の対象としているのはファン当人でも作品そのものでもなく、「なぜ不特定多数の目に触れる広告にこういった表現を用いたのか?」という部分、すなわち広告主や制作サイドに対してであることがすぐにわかるはずだ。
となると、批判をどう受け止め、それにどう応答するかは広告主と制作サイドの問題ということになる。批判の対象を広げたとしても、公共の場における広告物を監督する立場にある自治体や業界団体などがせいぜいだろう。このことは、冷静で理知的で、感情よりも立場や役割を重んじるはずの“男性”であれば誰にだってわかることだ。
ではなぜ、批判の対象になっているわけでもない“男性”たちが、時に怒気混じりで異論や反論の声を上げているのだろうか?
“男性”たちが上げるべき擁護の声とは
“男性”たちが最も得意とするところであるはずのロジカルシンキングに則って考えるならば、擁護の声は反対派ではなく広告主や制作サイドに向けて発せられるべき、ということが導き出される。
今の時代、客観的で中立や対等を重んじるジェンダーであるはずの“男性”であるならば、「男女平等」や「女性蔑視をなくそう」というテーゼに異を唱える者はいるはずもないわけで、だとするとなおさら、批判の声を上げている女性に対して感情的なバッシングを浴びせている“男性”たちの存在が理解できない。
仮にアニメファンや作品自体を攻撃するような声があったとしても、道徳的かつセルフコントロールに長けた“男性”であるならば感情を荒げることなく、「それは批判ではなく差別ですよ」と理性的な対応を取るはずだ。
また義に厚く、何事もルールとエビデンスを重視するはずの“男性”であるならば、「我々に対しては購買欲をそそる広告になっていたし、これからも応援し続けるが、不快に感じる人の存在や、人権的な観点から見た問題点が存在するならば、それをクリアした形での存続を望みます」など、応援の声や具体的な解決案を広告主や制作サイドに対して送るに違いない。
それこそが、感情や脊髄反射といったものからクールに距離を取り、すべてを俯瞰した上で最適なバランスを探り、トラブルを平和的かつクリエイティブに乗り越えていく“男性”のあるべき姿ではないだろうか。
そう考えると、「クソフェミの妄想www」「スカート透けてるなんて感じるほうがエロくね?」「風の強さや体勢次第では股間の線が浮き出ることもあります(キリッ)」などとコメントしている人は、おそらく“男性”ではない。かと言って女性だとも考えられない。あれは一体誰が発している声なのだろうか……。そこが心底よくわからない。
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