ぺこぱ“NEO優しい”の衝撃「優しいのにおもしろい」という革命(清田隆之)

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清田隆之_クイックジャーナル

文=清田隆之 イラスト=オザキエミ
編集=田島太陽


これまで1200人以上の恋愛相談に耳を傾け、ラジオやコラムで紹介してきた「桃山商事」の清田隆之。「M-1グランプリ2019」でぺこぱが示した、優しさの概念を更新するおもしろさを解説する。

優しさは退屈でつまらないもの、ではあるけれど

昨年末の「M-1グランプリ」決勝でぺこぱの漫才に衝撃を受けて以来、ずっと余韻が残りつづけている。本でも芝居でも、音楽でも映画でも、いい作品に出会ったときには必ずこういう感覚になる。受けた感動に言葉が追いつかず、無意識的にその時間や世界観を反芻しつづけてしまうこの感じ……。これぞカルチャーの醍醐味だよなっていつも思う。

ぺこぱの漫才に受けた衝撃、それは「優しいのにおもしろいって超すごい!」というものだ。こう表現するとなんとも陳腐になってしまうが、個人的には偉業や革命という強い言葉を使っても足りないくらいの衝撃だった。

優しさが大切というのは誰もが知っていることだ。思いやりやいたわり、共感や理解、受容に肯定、責めない、決めつけない、思考停止しない──など、他者に対しても地球に対しても、また自分自身に対しても優しくあることはとても重要だ。

しかし一方で、優しさは退屈でつまらないものでもある。なぜならそれは“予定調和”の世界に属するものであり、端的に言って刺激がないからだ。ドキドキしない、先が読める、ときに嘘くさく感じてしまう……など、“予測誤差(=「こうなるだろう」という予測に対するズレ)”から生まれる「笑い」との相性は最悪だ。

しかしぺこぱの漫才は、そんな優しさを武器にお笑い界に新しい風を吹き込んだ。「休憩を取ろう」「命を守ろう」など、それ単体だと道徳的な標語にしか思えないフレーズを使って観る者を爆笑の渦に巻き込んだ。これって相当すごいことだと思いませんか? あの日ぺこぱが見せてくれたのは、優しさとは決して退屈なものではなく、知的で批評的で刺激的で、極めてクリエイティブな営みにもなり得るという発見だった。

ぺこぱの漫才が裏切っていたもの

ぺこぱ
(左)シュウペイ  1987年7月16日生まれ、神奈川県出身。@shupei0716
(右)松陰寺太勇(しょういんじ・たいゆう)1983年11月9日生まれ、山口県出身。@yutamatsui1109

もっとも、ぺこぱの漫才は優しさをコンセプトに作られたものではない。

ネタ作りを担当しているツッコミの松陰寺太勇は「笑いを生むために『ボケてツッコむ』をさらに裏切りたいってことで行き着いたスタイルであって、優しさ先行では別にないんですよ」と証言している。あのスタイルは、「人と違うことをやらねば」「お客さんの予測を裏切りたい」という芸人としての試行錯誤の果てに生まれたもののようだ(詳しくは私が聞き手を務めた、ぺこぱインタビューをご覧ください)。

ではなぜ、人と違うことを志向し、お客の予測を裏切ろうと模索した結果が「優しさ」につながっていたのか。ぺこぱの漫才が何をどう裏切っていたのかを具体的に振り返りながら考えてみたい。

M-1決勝のファーストラウンドで披露したのは「タクシー運転手」というネタだった。漫才の冒頭、自己紹介のくだりで目の前にかぶってきたシュウペイに対し、松陰寺は「いやかぶっているなら俺がよければいい」と言いながらスッと横に移動する。ここで裏切っていたのは「かぶってきたシュウペイを注意する」という展開だろう。

観客にあいさつするシーンでいきなり相方の目の前に立ちふさがるというのは非常識な行動で、だからこそボケとして機能するわけだが、一方で漫才という枠組みの中ではボケることはむしろ常識的なことであり、これにツッコミがどうリアクションするかで笑いにつながるかが変わってくる。

松陰寺が見せた対応を細かく見ていくと、まず「いや」の部分でかぶられたことの驚きやムカつき、相方に対して何か言ってやりたい気持ちなどを吸収し、「かぶっているなら」と論理的に思考した上で「俺がよければいい」という解決策を導き出している。これは主体的な行動で「かぶり」という問題をクリアできる合理的なアイデアだ。

シュウペイの絶妙なキャラや振る舞いをうまく使い、観客に脊髄反射的な苛立ちや疑問(=ツッコミを入れたい気持ち)を発生させる仕掛けを施しておきながら、松陰寺がそれらを吸収した上で鮮やかな解決策を提示する──。あいさつのくだりは、こうやって巧みに予測誤差を発生させていたシーンだったように思う。

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