編集者、校閲者なしで書くことの恐怖。ライターとしてメディアの無個性化に抗う

2021.3.8

「cakes」はなぜ社名を「note」に

仕事で原稿を書く場合、こうしたチェック機能を自分以外にも、編集者や校閲が担っており、SNSよりよっぽど気が楽である。おそらくレーサーがサーキットを走るときに抱く安心感も、これと似たようなものではないか。

最近でも、私がある原稿でけっこう大きな事実誤認をしていたのを、編集者から指摘されて事なきを得たことがあった。このように編集者によって書き手が守られている部分は思いのほか大きい。ただ一方で、ここ最近、両者の間でのトラブルが表沙汰になるケースが相次いでいる。

たとえば、WEBサイト「cakes」では昨年、原稿中の表現に対して編集者が配慮しなかったり、逆に過敏になるあまり、何度か問題が生じた。これらネットでも議論を呼んだ案件の根本的な原因は、書き手と編集者の意思疎通が図られていなかったことにあるのだろう。

「cakes」は2012年の開設以来、私もずっと連載している媒体であり、信頼を置いていただけに、問題が相次いだのはショックであった。いや、実はこの少し前にも「cakes」には、個人的に複雑な気持ちを抱かされる出来事があったのだが。それは、運営する会社の名前が昨年4月に、ピースオブケイクから「note」へと変更されたことだ。

新社名となった「note」とは、誰でも自由にテキストや画像、音楽、映像などを投稿できるメディアプラットフォームで、同社が「cakes」につづき2014年より提供を開始した。以来、作家や雑誌編集部が相次いでページを開設するなど、ユーザーは増えていった。そこへ来ての昨春の社名変更は、会社の主要事業が「cakes」から「note」へと移ったのだとはっきりと印象づけ、それに私はやや寂しさを感じたのである。

もちろん、note社の方針にも、「note」のサービスにもケチをつけるつもりはない。新たな才能を世に送り出すため、ユーザーに対して同社が出版社などを紹介する支援体制が取られているのは、素晴らしいことだと思う。

ライター志望者はどうやって世に出たら?

ただ、私の若いころにこういうシステムがあったとして、果たしてここからライターになれたかどうかと考えると、はなはだ心許ない。

「note」でテキストが注目されるには、はっきりとしたテーマだったり、コンスタントに記事を上げつづける継続性だったり、あるいは読者の関心を引く表現力が求められるように思う。

しかし、若いころの私のように、書きたいという情熱はあるけれど、対象とするテーマが今ひとつ地味だったり漠然としていたりする人や、あるいは逆に、書きたいテーマははっきりとしているけれど、それに表現力がまだ追いついていないような人が「note」で注目されるのはなかなか難しい気がするのだ。

そんな可能性が未知数の書き手のためにも、編集者はやはり必要である。思えば、自分も、声をかけてくれた編集者からたびたびテーマを与えられ、短い記事を書いてはメディアに載せてもらうことで力をつけていったところがある。今でも、若い編集者などから提案されたテーマを自分なりに料理して書いてみることで、書くものの幅が広がるということは少なくない。そもそも「cakes」で連載している、亡くなった著名人の足跡を辿るという「一故人」の企画も、社長の加藤貞顕さんからの提案で始まったものである。

『一故人』近藤正高/スモール出版
『一故人』近藤正高/スモール出版

私がライターデビューするきっかけを作ってくれた中森明夫氏が昔、「単に投稿からだけではライターになれない。具体的にページを与えられ、とにかく形にしてお金をもらうというふうに仕事としてやらなければ、ライターは育たない」と、ライター入門の本で語っていたのだが(田村章・中森明夫・山崎浩一『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』太田出版)、自分の来た道を振り返るにつけ、つくづくそのとおりだと思う。ただ、問題は、やる気だけはあるライター志望者が世に出るための手立てが、今どれだけあるのか、ということだ。

『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』田村章、中森明夫、山崎浩一/太田出版

たとえば、映画『天気の子』では、東京へ家出してきた少年が、たまたま零細の編集プロダクションの社長に拾われて、雑務を手伝ううち取材や執筆なども任される様子が描かれていた。私自身、似たような経験をしてきただけに観ていて懐かしかったのだが、現実には、若者にこうした機会を与えてくれる編プロや出版社はもはや絶滅危惧種だろう。たとえライターを募集していても、わずかな原稿料で、ネット上から情報を適当に集めて記事を何本も書かされるような、とうてい将来性の見込めないところだったりする。いや、それ以前に、そもそも今どきライターになりたい若いやつなんているのかよ、とツッコまれるとぐうの音も出ないのだが……。

『天気の子』DVD/東宝
『天気の子』DVD/東宝

記事の平準化も進む

ネットの状況もここ数年で大きく変わった。ここ10年、若手・中堅ライターを集めて、オリジナルの記事をコンスタントに掲載していくサイトが、大手出版社などの参入もあり大幅に増えた。私も、「cakes」を含め、いくつかそうしたサイトに立ち上げから関わるいかざるを得ない機会に恵まれた。これはなかなかに楽しい体験ではあった。何しろ、ネットではまだしっかりと扱われていない題材がたくさんあったからだ。ドラマレビューなどはそこで発見した鉱脈といえる。

しかし、オリジナル記事をメインとしながらも、最近では他媒体のコンテンツも徐々に転載するようになったサイトも目立つ。広告収入などを考えると、オリジナルコンテンツだけではやっていけないなどの事情もあるのだろう。こうした形式は今後も広がっていくに違いない。

こうなると各メディアの独自色というのは薄れていかざるを得ないだろう。不特定多数の読者を相手にする以上、記事の平準化も進むだろうし、メディア側もなるべく穏便な表現を望むようになるはずだ。だが、それでも書き手としての私はそんな流れに抗いたいし、そのためにも編集者には協力者であり、一種の共犯者であってほしいと切に思う。

『QJWeb』は実はその点で、ささやかな試みを行っていたりする。それは、各記事に執筆者と並んで担当編集者の名前もクレジットしていることだ。記事を作るとは、書き手と編集者の共同作業であることが、この試みによって、世間にもっと意識してもらえるとありがたいのだが。

【追記】
ちょうどこの記事の校正をしていたところ、ツイッターで、ある出版社の編集者が著者やライターに向けて呼びかけたことが、ちょっとした議論を巻き起こした。その編集者によれば、原稿を完成させたら改めて見直した上、「という」「と思います」「こと」「もの」といった表現や過剰敬語があればカットしてほしいという。これに対して、書き手の間では否定的な反応が目立った。

私の場合、文章が回りくどくなりがちなので、実際に編集者からこのような指摘をされたら、素直に耳を傾けると思う。じつは少し前にも似たようなツイートをしている人がいて、その内容を頭の片隅に置いて原稿を書くよう心がけてみたところ、文章が多少簡潔になり、それなりに効果はあった気がする。ただ、これをすべての書き手、原稿に杓子定規に当てはめるのは、いささか乱暴に過ぎるだろう。

私がくだんの編集者の言い分で違和感を覚えたのは、むしろ、先の呼びかけのあとのツイートだった。そこでは、上記のお願いをする理由として、いずれ「誰かが直さなければならない」からだと説明されていた。要するに、本や記事の制作を流れ作業と捉えているのだろう。

たしかに段取りとして、原稿ができたらまず編集者や校閲者がチェックするわけだが、それでもそのあとで再び書き手に確認する必要がある。本や記事をつくるとは本来、そんなふうに書き手と編集者がやりとりしながらの共同作業であり、流れ作業のような単純なものではないはずなのだが……(なお、くだんのツイートはその後、投稿者が「不適切だった」として削除している)。

書き手としては、本文でも書いたように、編集者あるいは校閲者からの指摘に助けられることは少なくない。しかし、それぞれの立場はあくまで対等であるはずで、一方的に押しつけるのは(たとえ「お願い」というニュアンスであっても)筋違いだと、改めて強調しておきたい。

※記事初出時、加藤貞顕氏のお名前を「禎顕」と表記しておりましたが、note社のご指摘により修正いたしました。お詫びして訂正いたします。

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