自分の「サブカル性」を客観視させられてしまう映画
もちろん、映画を観ながらいろいろなことを考えた。好きな芸人の公演のチケットを取っているのに、たまたま会った知り合いとの食事を優先する感覚って一般的なのだろうか。とか、電車に「乗ってたら」じゃなく「揺られてたら」って表現する人、俺はそんな好きじゃないな。とか、家を飛び出して彼女のためにずっと走ってきた感じ出してるけど、途中歩いたりもしてたんだろうな。とか。
友達と映画を観たあとの喫茶店でならそんな感想でじゅうぶんだが、文章を書くとなるともう少し全体を俯瞰した視点が必要になる。それで、この映画がなぜ私および私周辺の人たちにこんなに刺さったのかと改めて考えてみれば、おそらく自分の「サブカル性」のようなものを客観視させられてしまうからだろうと思った。

主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、少なくとも映画の主人公になるようなキャラクターの中では、比較的自分と趣味が近いタイプの人間だと思う。にもかかわらず、映画を観ていくうちに「こいつら気に食わねえな」という感情がどんどん高まってきた。
「〇〇が好きなんじゃなくて〇〇を好きな自分が好きなだけだろ」問題
「お前は〇〇が好きなんじゃなくて〇〇を好きな自分が好きなだけだろ」的な文言が、ネットで多数の賛同を集めているのをこれまで何度も見たことがある。人から言われたら一番ムカつくタイプの言葉だ。それで何かを言った気になるなよ、と。そんな使い古された表現で喜んでいる人間は総じて感受性の鈍いバカだとすら思う。
例外はあるだろうが、おしなべて「〇〇を好き」という感情には「〇〇を好きな自分が好き」という感情が幾分かは含まれているものだ。よさのよくわからない名盤を何度も聴いたりするのも、その盤を好きになりたいから、引いてはそれを好きだと心から言える自分を好きになりたいからだと思う。まあ、そんなことをしない人間のほうが世の中には多いのかもしれないが。

いつだったか、蒼井優が「誰が好きかより誰といるときの自分が好きかのほうが大事だ」と言っていた。それもだいたい同じことだ。私は素直に「いいこと言うな」と思ったし、誰もが称賛していた。
しかし麦と絹を見ていると、ネットとまったく同じ下衆な文脈で「〇〇が好きなんじゃなくて〇〇を好きな自分が好きなだけだろ」と言いたくなっている自分に気づいた。ミイラ展とかガスタンクとか本当に心から好きなのか。
私がもし人から好きな言葉は「替え玉無料」もしくは「バールのようなもの」だと言われたら、できるだけ表情筋を動かさないように「へえ」と答え即座に話を終わらせる。きっとこいつはそのひと言で「あなたおもしろいね」「私、あなたみたいな人好きだわ〜」と評価されたことがあるのだろう。腹立たしいことだ。