「女らしさ」を爆破した石岡瑛子、「理想の女」を演じた江戸の和装男子──ファッション&広告から読み解くジェンダー観の歴史

2021.1.13

文=佐々木ののか 編集=碇 雪恵


2020年、数多くの「ジェンダー炎上」がSNSを騒がせた。古い男性像・女性像を描いた広告は、SNSの登場によって批判を浴びせられるようになった一方、ジェンダーにまつわる話題がいっそう「腫れ物」として扱われている感も否めない。

そんな現在から遡ること60年前に資生堂へ入社し、自立した女性像を広告に打ち出したのが、石岡瑛子だ。彼女の業績を集めた初めての大規模回顧展『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』と、『和装男子 ─江戸の粋と色気』から、文筆家の佐々木ののかが、ファッションや広告に見るジェンダー観の歴史を紐解く。

ジェンダー観を更新したファッション広告

新卒で入った会社は、老舗アパレル系メーカーだった。

同期に女性はおらず、紅一点。それを不憫に思ってか、「女の子ひとりで大変だね」「女の子は愛想よくかわいくしていればいいから」とやたらと言われたことに腹が立ち、長かった髪を耳上まで刈り上げ、男性と同じような服装をし、できるだけガニ股で歩いていたことを覚えている。

古きよき伝統を受け継ぐ老舗においても、そうした態度や服装が「ボーイッシュ」の範疇にギリギリ収められていたが、50〜60年前であっても同じように受け入れられていたかは定かではない。

ましてや今以上にジェンダーに関する固定観念が強かった時代の話だ。それなりの“起爆剤”が必要だったことは言うまでもない。

東京都現代美術館で開催中の『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』では、ファッション広告がいかにしてジェンダー観を更新してきたかの軌跡を見せてくれる。

本展は、アートディレクター、デザイナーとして、広告やブロードウェイ、ハリウッド、オペラ、ポップミュージック、サーカス、オリンピックなど、多岐にわたる分野で活躍した石岡瑛子の仕事を3章構成で総覧するものだ。

特定の領域や固定観念に囚われない石岡のどの仕事にも奮い立たされたが、私が最も印象に残っているのは、主に化粧品・ファッション広告を扱った第1章「Timeless:時代をデザインする」だった。

社会におけるデザインの重要性に大きく注目が集まった1960年代初頭、石岡は資生堂に入社。入社面接で「男性と同じ仕事と待遇」を求め、「化粧品広告という極めて通俗的な表現の枠の中に、爆弾を仕掛けることに意欲」を持ってキャリアをスタートさせる。

資生堂の広告では「太陽の下でへこたれない生命力、意志的な顔と健康な肉体」を持つ前田美波里を起用し、自立した女性像を提示。パルコが文化拠点として「渋谷パルコ」を計画していた時期の広告では「ファッションを、単なる衣を超えた主体的な生き方である」とするメッセージを込めて、ヌードの女性を起用。80年代に手がけた三陽商会のキャンペーンでは、女性ボディービルダーの先駆けであるリサ・ライオンを起用し、既存のジェンダー像を打ち壊した。石岡は広告を通して、既存の女性像を更新していったのである。

石岡が資生堂に入社した1961年といえば、日本において脱脂綿に代わる紙製のナプキン「アンネナプキン」が初めて発売された年だった。アメリカの反戦運動から起こったフェミニズムが全世界に波及し、全共闘時代の女性たちによって主題化させられた時期でもあるが、表で語られることのない理不尽があったことは想像に難くない。

展示されている仕事の数々が、そうした“戦い”の末に結実したものだと思うと、呆然と立ち尽くしてしまうことたびたびだった。また、今着ている服や当たり前に身に着けたジェンダー観も先人たちからの贈り物だ。そう考えると、纏った服が急に重みを増してくる。

参考文献:『「モノと女」の戦後史 身体性・家庭性・社会性を軸に』(天野正子、桜井厚/有信堂/1992年)

江戸時代の和装男子に見る、ファッションとジェンダー観

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