ポストコロナにおける「新しい生活様式」とは――二極化する「身省」と「身体」文化

2020.7.9
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文=粉川哲夫 編集=森田真規


Covid-19の影響によって今、誰もが待ったなしで「新しい生活様式」に適応することを求められている。だけどその先に、どんな世界が待ち受けているのか想像できている人は少ないはずだ。

『メディアの牢獄』(1982年)や『もしインターネットが世界を変えるとしたら』(1996年)などの著書を持つメディア批評家の粉川哲夫が、映画『コラテラル』、アムステルダムの「紅灯街」、《身省》テクノロジーなど俎上に載せ、ポストコロナで変化が予想されるライフスタイルについて縦横無尽に論じた。


コロナ禍を「革命」として考えてみる

コロナ禍とは何か? 革命である。「え? 災害じゃないの」と言われるかもしれない。が、ただちに「戦争」として抗戦を宣言した指導者たちがいるように、革命だからこそ、戦争という言葉が出てきたのだ。戦争の反対は平和ではなくて革命である。無論、この革命は、政治組織や陰謀家による革命ではない。この革命の「主体」はCovid-19である。つまり人間ではなく、ウイルスだ。この革命は「分子革命」である。

世界は、偉人や英雄や過激派や革命政党で変わるよりも、さまざまな「分子」によって変わってきた。それは、けっして終わりがない。疫病もそうだが、我々の体内では絶えず「分子革命」が起こっている。「分子料理(モレキュラー・クィズィーン)」に限らず、料理は、分子革命を味わわせ、愉悦と共に悪寒や病気に導きもする。

ある事態を「革命」と考えると、災害や戦争と見なすのとは全然違った風景が見えてくる。私は、真夜中の散歩をこよなく愛し、大きな通りで車の音とガソリンの匂いを嗅がないでは1日が終わらないのだが、「自粛」期間にはまばらになってしまった幹線道路の車の交通が、再び賑やかになり、流通の大型トラックが疾走するようになった。物品が広域に移動し始めたことがわかる。このぶんでは、今後、PCR検査で発見される感染者数がもっと増えても、ロックダウンはおろか「自粛」命令も出ないだろう。

為政者の個々の意見とポーズはいろいろだとしても、基本路線として、そういうことはもうしないし、できないのである。じゃあ、感染問題への対処はどうするのか、といえば、それは、「コラテラル」と見なそうという方向に行く。政府や自治体は、感染率の高い場所や感染の仕方を詳細に提示し、あとは「自己責任」にするということになるだろう。これが、「コラテラル」主義である。

「コラテラル」主義の時代を生きる

この「コラテラル(collateral)」という語の意味は奥が深い。アーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画『コラテラル・ダメージ』(2002年)では、爆弾テロに巻き込まれて死亡した妻の死が「コラテラル」つまり巻き添えだと言われ、一向に犯人の捜査をしない当局に業を煮やした男(シュワルツェネッガー)が、独力でその「テロ組織」を探し出し、復讐する。が、人の死をこの語で説明する方法は、軍事からやってきた。「コラテラル」な結果は、あらゆる軍事行動に最初から計算に入れられている。ピンポイントのドローン攻撃でも「巻き添え被害」は必ずある。だから、これは「巻き添え」とは言わず「副次的」と言い、その軍事行動にとっては想定内の出来事なのである。

その意味では、この用語の本質をずばり描いたのは、マイケル・マンの『コラテラル』(2004年)である。トム・クルーズが演じる殺し屋にとって、自分以外は「コラテラル=副次的」な存在であり、依頼された仕事の遂行のためには、誰でも簡単に殺してもいいのである。それを、タクシードライバー(ジェイミー・フォックス)の「普通」の目に対比して描くのだが、フォックスのヒューマニズムよりも、トム・クルーズの魔術的なまでの演技(たとえば「マイ・ブリーフケース?」のシーン)にゾクゾクするなら、あなたは、かなりの程度「コラテラル」主義に感染している。マイケル・マンは、テロや戦争には一切触れず、血の通った身体までも単に「コラテラル(副次的)」な存在に過ぎなくなる時代の気分を鋭く描いた。

映画『コラテラル』トム・クルーズの魔術的な演技が光る「マイ・ブリーフケース?」のシーン

オフィスは幹部の特別空間、ワーカーはリモート仕事が当たり前に


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