「貧しさを自己責任と呼ぶな」ケン・ローチが半世紀以上前から突きつけるメッセージ。唯一の光を奪われた少年の絶望への祈りと憤り(石野理子『ケス』レビュー)
2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。
第18回は、ケン・ローチ監督による『ケス』。労働者階級や社会的弱者へと長年カメラを向け続けてきたローチ監督の初期代表作であり、今なお“英国映画の金字塔”として語り継がれる一本だ。炭鉱町で孤独を抱える少年と、一羽のハヤブサとの出会いを通して映し出されるのは、人間の尊厳。時代を超えて観る者の心を揺さぶる本作から、石野が受け取った痛みと希望とは。
※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください
「イギリス北東部3部作」最終章が描いたもの
先日、ケン・ローチ監督の新作『オールド・オーク』を観た。
労働者を描き続けた、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)、『家族を想うとき』(2019年)に続く「イギリス北東部3部作」の最終章であり、彼の事実上の引退作とも噂される作品だ。これまで社会の不条理を容赦なく切り取ってきた監督だが、今作のラストには少し意外な温かさ、「世界はまだ変えられるかもしれない」というかすかな希望があった。
少年がハヤブサに寄せるリスペクト
その余韻に突き動かされるようにして、私はずっと気になっていた彼の初期作『ケス』(1969年)を観ることにした。半世紀以上前の作品だが、今を生きる私たちが心に刻むべき通底したメッセージがそこにはあった。

イギリス・ヨークシャーの閉塞感漂う小さな炭鉱の町。主人公の少年ビリーには、家にも学校にも居場所がない。シングルマザーの母親は再婚に夢中で育児放棄気味で、兄からは奴隷のように扱われ、学校へ行けば高圧的な教師たちから理不尽なパワハラや暴力を受ける。体操服すら買えない貧困のなか、毎朝6時に起きて新聞配達をして必死に生きながらえているビリー。そんな彼が偶然、森でハヤブサのヒナを見つけ、「ケス」と名づけて独学で育て始める。
この映画の何が素晴らしいかって、ビリーとケスの関係性だ。ビリーはケスをペットとして飼い慣らそうとはしない。どこまでも獰猛で、超然とした野生の鳥としてリスペクトしている。
「僕は姿を見て、空に飛ばせれば満足だ」と。
周囲の大人たちからことごとく尊厳を奪われ、狭い世界に閉じ込められているビリーにとって、ケスは自由の象徴だったのだと思う。
ささやかな幸福を守る責任
劇中、忘れられないシーンがある。
国語の授業中、クラスメイトから「ハヤブサに夢中な変人」とからかわれたことをきっかけに、ビリーがみんなの前でケスの話をし始める瞬間だ。それまで生気のない目をしていたビリーが、どうやってケスと出会い、どうやって信頼関係を築いたのかを語るうち、みるみる生き生きとした輝きを放ち始める。ビリーの言葉に熱量が宿っていた。あの瞬間、彼は、彼自身の人生の主権を取り戻しているようだった。
少しだけ理解を示してくれた国語の先生に、ビリーは本音を漏らす。「先生は生徒に無関心だし、そりゃあ生徒も先生に無関心になる」「働きたいわけではないが、給料がもらえるから働く。本で読んだタカも買えるし。僕は仕事を選ぶ立場じゃない」と。年端もいかない少年にここまで言わせてしまう現実が、あまりにも切なく、非情さを感じざるを得なかった。
さらに現実は容赦なく、彼らのささやかな幸福を飲み込んでいく。
ケスはビリーの心の拠りどころであり、閉塞感を打ち破る唯一の光だった。ケスは兄によって奪われてしまい、ケスを奪われたビリーの絶望を思うと、胸がつぶれそうになった。
弱い者が、さらに弱い者を虐げる社会構造。頼れる大人もいないコミュニティで、基本的な権利すら剥奪されていく子供たち。映画を観終えて、ビリーにはすべてを自己責任だなんて思って背負い込まないでほしいし、ビリーのように輝く原石のような感性を持った子供が、その素晴らしいところをまっすぐに伸ばせる社会であってほしいという祈りのような、憤りのような感情が湧いた。
『オールド・オーク』で突きつけられた「貧しさを自己責任と呼ぶな」という強いテーマは、すでに半世紀前の『ケス』にもあったのだ。
人間への冷徹なまでの観察眼と、それでもなお残る切実な愛。ケン・ローチ監督の原点と現在地をつなぐこの2作を、ぜひ地続きで目撃してほしい。
『ケス』を各配信サイトでチェック!
関連記事
-
-
鈴木伸之「好き」に勝てるものはない。ゴルフとウイスキーの時間で見えた“大人の余裕”
HARPER'S CROSSING ~I.W.HARPERとともに語る「好きを、貫く。」~:PR





