今までやってきたこと、すべてが活きている
映画のみならず、テレビドラマにも引っ張りだこの安藤政信。各方面からの彼へのラブコールはやむことがないようだ。デビューから25年の時を経た今、「表現」のフィールドを縦横無尽に駆け回る彼の動きからますます目が離せなくなっている。
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──近年の安藤さんの活動を追っていると、安藤政信というひとりの人間の中で、「俳優」というものの位置づけが変化してきているのではないかと感じます。

安藤 俳優だけにしかできない表現というものは、すごく大事だと思います。それに、ひとつのことをやりつづけるのは大切なことですよね。でもそれって、「日本的な美徳でしかないよな」とも思うんです。何足ものわらじを履いちゃいけないような風潮がありますよね。
──「ひとつのことを極めなさい」という。
安藤 そうです。でもあるとき、「自分はひとつのことしかやってないな」と思ったんです。それは“クリエイティブ”ということにおいて。ちょっと理屈的かもしれないけど、何かを作ることや、自分の感性をどう表現するかということに関しては、ひとつのことをやりつづけてきました。俺の場合はたまたま芝居だけだったかもしれないけど、写真を撮ることや、『さくら、』を監督したことも、“クリエイティブ”という意味では同じ。俳優の話で言えば「引き出しが増えた」みたいなことと一緒で、表現の手段が増えることはとてもよいことだと思っています。自分の場合は、映画かドラマかの2択に、写真家、映像作家も加わったんです。
──表現の選択肢が増えたと?
安藤 そういうことです。それに自分は、どれもやれる自信がある。自分の頭の中にあるものが、響く人にはきちんと響くという自信があります。それがあるのならば、表現するべき、カタチにするべきだと思うんです。100人が100人、みんなに届くとは思っていません。でも、届く人には届く。そう信じています。もちろん、より多くの人に届けなければならないこともあります。たとえばドラマの場合、それに適した芝居をする。「役割」を、ちゃんと理解しておく大切さを感じています。


──芝居も写真も映像も、すべて「表現」というところでつながってきますよね。
安藤 全部ちゃんとつながっていますね。ずっと俳優をやってきたからこその台本の読み方だったり、写真を撮りつづけてきたからこその光(照明)のチョイスであったりだとか。どういう角度で撮れば、被写体が魅力的に見えるのか、これらは今回の映画製作に活きましたね。これまでの活動の一つひとつが伏線だったような気がします。今までやってきたことが、すべて活きている。何も無駄になっていない。
──『さくら、』で、そのことを多くの人が知る機会となりますね。
安藤 そうなんです。撮らせてもらった感謝はもちろんありますが、『さくら、』は自分のプレゼンテーションでもあると思っています。CMやMV的なリズム感のある編集、俳優の芝居だけで成立するような長回しを採用したり、自分がずっと大切にしてきた美意識も散りばめています。この作品を世に出すことで、自分が映像を撮れる人間であることと、そのクルーがいるってことを証明できる。そして、これをきっかけに映像作家としての次なる展開があると信じています。

──「MIRRORLIAR FILMS」本来の趣旨にもつながってくるように感じます。
安藤 友人がやっている大切な企画を一緒に成功させたい思いがありますし、そこに僕も参加している以上、その次の展開の伏線もきちっと作りたい。そして今度は僕ひとりで、一本の映画の監督を任せてもらえるように。単に映画を撮るのではなく、そこは野心を持って、ある種クレバーに挑みました。
