高橋一生が見せた恐るべき芸当。現実世界の“いたたまれない不条理”を投影した野田秀樹の新作『兎、波を走る』レビュー

2023.8.30


フィクションとリアルをつなぐ高橋一生

NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』(撮影:篠山紀信)
NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』(撮影:篠山紀信)

この物語の中心に立つのが、「アリス」と「アリスの母」の間を駆け回る「脱兎」だ。演じるのは高橋一生。『フェイクスピア』につづき、NODA・MAPにはこれが2度目の参加である。

彼は「脱兎」という名前のとおり、常に舞台上を駆け回る。上演時間は2時間10分。凄まじい運動量だ。演者本人への身体的な負荷は相当なものだろう。しかし、高橋が負っているのは身体的なものだけではない。彼は演劇という営為によって生み出された圧倒的なフィクションの世界(=虚構)を駆けながらも、最初から最後までリアル(=現実)を背負いつづけている。

NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』(撮影:篠山紀信)
NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』(撮影:篠山紀信)

思い返せば『フェイクスピア』でもそうだった。高橋は不条理の果てともいえる世界を駆けながら、ただひとり、現実を背負いつづけた。作品のモチーフになっていたのは、1985年に起きた「日本航空123便墜落事故」だった。やがて高橋の演じる「mono」という匿名的な人物が事故の最重要人物だとわかったとき、観客の誰もがこのキャラクターを不条理の底から引き上げようとしただろう。物語の冒頭のセリフはこんなものである。

「ずしーんとばかり、とてつもなく大きな音を立てて大木が倒れてゆく。けれども誰もいない森では、その音を聞く者がいない。誰にも聞こえない音、それは音だろうか。そして私は誰もいない森でこの話をしている。誰にも聞こえない言葉、それは言葉だろうか。なんのために誰もいない森で倒れる大木は音を立てるのだ。なんのために誰もいない森で私は言葉を紡いでいるのだ……そう言い終わると神様は、誰もいない森で、永遠に目をつむった」

主人公の「mono」が開口一番に発したこのセリフは、あまりにも不条理だった。いくらフィクションとはいえ不条理が過ぎた。いきなりやってきたこのキャラクターに、私たちはさっそく置いていかれた。言っている言葉の意味がまるでわからないのだから。けれどもやがてこれらの言葉は、私たちの生きる現実に接続されたのだ。

『兎、波を走る』でも高橋が演じるキャラクターは、やがて実在の人物へと姿を変える。いつかの時代、確実に存在していた男の物語へとこの作品は辿り着く。

演劇とはあくまでも板の上でのこと。そこで生み出されるものはすべてフィクションだ。第一声でこの劇空間へと観客を誘い、ふいに現実へと押し戻す。私たちは目を背けることも、耳を塞ぐこともできない。フィクションとリアルをつなぐ──こんな芸当をやってのけるのは、高橋一生だけなのではないだろうか。

『兎、波を走る』高橋一生さんインタビュー

涙を流すことは連帯の証などにはならない

『兎、波を走る』でモチーフになっているのは、たったの一度も収束を迎えていない、今も私たちの目の前に横たわる現実の大きな問題である。直接的な言及は控え、示唆するに留めたが、散りばめられた情報を手がかりに辿り着くことは誰しも可能だろう。

いや、辿り着かねばならないし、私たちは記憶の片隅からそれらを引きずり出さねばならない。なぜなら繰り返すように、たったの一度も収束を迎えていない、今も私たちの目の前に横たわる現実の大きな問題だからである。

私はこの問題の事件の当事者を、あまりよく知らない。あなたはどうだろうか。現実に、その仲を強引に引き裂かれてしまった人々がいる。私はそのことを知っている。が、その実態はよく知らない。知らないということは、このような人々にとってなんの力にもなれていないことの証左だろう。

誰かの悲しみを汲み取って涙を流すことは、連帯の証などになりはしない。今も乾くことなく涙を流しつづける人々がいる現実があるが、人間には忘却という生存のための便利な機能がついている。

主演の高橋一生をはじめとするこの作品の参加者は、実際に起きた事件とは直接的な関係がないだろう。だが、彼らは演劇による“現実の語り直し”によって、今まさに深く関わっているところだ。そこには野田秀樹をはじめ、「忘却」という便利機能を捨て去ろうとする人々の姿がある。それがつまり、『兎、波を走る』なのである。

タイトルに用いられている「兎波を走る」という言葉は、月影が水面に映っているさまをたとえたことわざだ。闇夜に揺れる月影はさぞかし美しいだろう。しかしその水面の月影は、誰にとっても美しいわけではない。少なくとも本作に触れた私には、ひどく不条理で寂しいものにしか思えないのだ。

NODA・MAP 第 26 回公演『兎、波を走る』に向けた野田秀樹からの直筆メッセージ
NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』に向けた野田秀樹からの直筆メッセージ

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  • NODA・MAP 第 26 回公演『兎、波を走る』

    NODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』

    作・演出:野田秀樹
    出演:高橋一生、松たか子、多部未華子、秋山菜津子、大倉孝二、大鶴佐助、山崎一、野田秀樹

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折田侑駿

(おりた・ゆうしゅん)文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿。映画トーク番組『活弁シネマ倶楽部』ではMCを務めている。

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