『ベルリンうわの空』の香山哲が、創作の全過程を公開した『香山哲のプロジェクト発酵記』が2022年11月にイースト・プレスより発売された。創作の過程を「プロジェクト」と称し、アイデアをいかに自分らしく発酵させるかの実践法を説いている。
今回は、そんな“とある表現者の記録”をレビューする。
※この記事は『クイック・ジャパン』vol.164に掲載のコラムを転載したものです。
物語は、始まる前からが物語
ミードって飲み物を、初めて飲んだ。聞けば北欧の古い酒らしく、熊の食べ残したミツバチの巣に雨水が溜まり、時間をかけて発酵したものが発祥ではないか、との説もあるらしい。その説も含め、なんだか神話世界の飲み物みたい、香山哲のマンガに出てきそうだな、と思った。シャインマスカットが更に輝きを増したような、目の覚める味がした。
『ベルリンうわの空』等、紀行マンガで知られる香山哲は、現実の異国情緒を上塗りしてしまうほどに持ち前の異国情緒が強い作家。ロバート・クラムとハビエル・マリスカルを和えたかのごとき、要するに無国籍で、熱さと愛らしさがある。
『香山哲のプロジェクト発酵記』は、前作をひと段落させた作者が、新連載の構想にあたり、構想そのものを新連載にしてしまうという実験的な作品。まず、構想に手をつけるための準備や心構え、制作におけるリスク排除についてマンガ化していくが、思考を巡らすのに夢中になって次第にマンガの様相を失う場面もある。
しかし絵と字は丁寧にそれらを整理してゆく。絵で説明できるものは絵で、できないものも絵で。でもやっぱり、訴えたいことは驚くべき手描きの字で。字で。字で。しまいには読んでるのか、神秘的な記号を視覚器でスキャンしてるのか、わからなくなってくる。
構想しているのは、異世界ファンタジーマンガ。流行の「異世界もの」も、初期は異世界に注ぎ込まれる現代の文化とのギャップが実験的であったはずだが、今や月に250タイトル以上が刊行される(11月に独自調査しました)一大ジャンルで、もはやそれは異世界ではないのではないか、とも思うが、香山哲はガチの異世界の構築を目指す。
主人公は、このジャンルの冒険につきものの「戦闘」を避けて生き延びる設定。これはそのまま、氏の創作行為に対する姿勢に重なる。自足自給で田舎で暮らすなんて素敵だけれど、実行には苦難があるのと同じように、この姿勢(作中の言葉では「のんびり」)にも才能がいる。制作時間のことをときどき「寿命」と生々しく記すのも、それが甘くないことをやんわり示している。マンガとお金を結びつけることも強調しない。
果たして、ここで発酵された物語はマンガとして結実するのか。それも実は関係ない。だから、これは「マンガ家入門」ではない。ただただ、真っ当な創作の姿勢を見せつける、善き表現者の記録なのだ。かつて氏が表現者の理想形として提唱していた「低い孤高」を完成させたようで、目の覚める気がした。
『香山哲のプロジェクト発酵記』

定価:1,320円(税込)
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『クイック・ジャパン』vol.164
★通常版★
発売日:12⽉27⽇(火)より順次
定価:1,430円(税込)
サイズ:A5/160ページ★限定版★
発売日:12⽉27⽇(火)より順次
定価:2,200円(税込)
サイズ:A5/160ページ
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