のんが引き出した、大女優・三田佳子の本気の芝居。表現者・のんの真髄は、相手に全力を出させる力にあり
10月28日に封切られた、のん主演の映画『天間荘の三姉妹』。ライターの相田冬二は、この映画で彼女が大ベテラン・三田佳子のかつてない“本気”を引き出しているという。
9月公開の『さかなのこ』でも主演を務め、2月公開の『Ribbon』では劇場公開の長編で初監督を果たした、のん。2022年、八面六臂の大活躍を見せている彼女の表現者としての真髄に迫る。
目次
昭和を代表するスタア・高倉健を圧倒した広末涼子
『鉄道員(ぽっぽや)』という映画をご存じだろうか。1999年公開。高倉健、後期を代表するヒット作である。
北海道ローカル線の老駅長。暮らしより職務を優先し、寡黙にストイックに生きてきた彼は、幼いまま亡くしたひとり娘が成長した姿を目撃する。それは、死にゆく老駅長が手にした人生最期の贈りものとしての幻影だった──。
とまあ、観客は高度成長期を支えた人々が中心となり、映画館では「昭和の涙」が大量に流れることになったのだが(時代はとっくに平成だった)、ノスタルジックなファンタジーとしての側面を無視して、映画の画面そのものを見つめるならば、刮目すべき点がひとつあった。
主人公の死んだ娘の亡霊は、3段階にわたって登場する(つまり、有り得たかもしれない「成長」を目の当たりにする)が、その3番目の少女を演じたのが広末涼子だった。当時の広末は空前絶後、生粋のアイドルにして唯一無二の女優だったが、その天才性が遺憾なく発揮されたのがこの一瞬。
そろそろ四半世紀が過ぎようとしているが、あのシークエンスは異常にクリアに記憶している。これは映画のクライマックスである。というより、『鉄道員(ぽっぽや)』という物語は、ほぼこれしかない。老駅長が、その少女は自分の死んだ娘が成長した姿なのだと認識すること。これこそが、本作の大団円であり、幕切れであった。
言葉を交わし合うことで、老駅長は少女の正体を知る。温もりのある怪談。その真実が、高倉健と広末涼子のふたり芝居によって演じられた。
幽霊を体現する広末の、奇蹟のような演技に、あの高倉健が動揺している。昭和を代表するスタア中のスタアである高倉が、ひとりの少女の表現に圧倒されている。その模様が記録されている映画だった。
ぼんやり眺めていたら、さすが高倉健、老駅長の慟哭を見事に寡黙なまま体現した、ということになるのだろうが、きちんとつぶさに見つめれば、スタアの動悸や鼓動が聴こえるほどのうろたえがそこには刻印されている。
高倉健の長い映画人生でも、それは、ほとんど起こらなかったことだと考えられる。
のんvs三田佳子、超一流のアスリート同士の試合のようなデッドヒート
最近、それに近い瞬間を目撃した。
『天間荘の三姉妹』という映画で、奇しくも『鉄道員(ぽっぽや)』と同じ東映作品。さらに、生と死が隣接する系統の物語ということも共通している。
これは形容不可能な作品で、『鉄道員(ぽっぽや)』のような、わかりやすいあらすじ紹介はほぼ不可能だが、スピリットは相当近く、平成を経て、令和を迎えた日本において、今もなお「昭和の涙」を抱えている人はもちろん、昭和をリアルタイムで知らずとも、「昭和の涙」回路を先天的に有している若い人(案外多いのではないか)なら、きっと号泣するだろう。おそらく意図はしていないはずだが、映画のテイストがかなり重なる。
その点においても、『天間荘の三姉妹』は『鉄道員(ぽっぽや)』に接近しているのだが、それはさておき。
主演は、のんである。
のんは1993年生まれだが、今回共演する三田佳子は、彼女が生まれる前からベテランの風格で映画界に君臨してきた女優だ。たとえば、薬師丸ひろ子がまだ20歳だった1984年の『Wの悲劇』において、三田は完全に大ベテランであったし、実際劇中でもベテラン女優を完璧に演じ切って、その年の映画賞を総ナメにした。
言ってみればベテラン中のベテラン。そんな彼女が、のんに対して本気を出している。いくつかの場面で、三田佳子の動悸と鼓動が聴こえた。
少なくとも私は、ここまで本気を出した三田を見たことがない。『Wの悲劇』にしても、超然と彼方から演技の鉈(ナタ)が振り下ろされていた。森田芳光監督の『おいしい結婚』の撮影現場を見学したことがあるが、やはり三田は超然と彼女にしかできない演技のジャブを繰り広げていた。三田佳子は、ずーっと大女優であった。
ところが、ところが、である。のんを前にした三田は、そうではなかった。躍動する焦りが感じられた。奮い立つ魂が感じられた。こうしちゃいられない。あんた、やるのね。じゃあ、やるわよ。そんな意気と息。全集中の構え。超一流のアスリート同士の試合を観戦しているような緊張感がほとばしった。
いや、何も、このふたりは絵に描いたような丁々発止、いわゆる演技合戦のようなことをしているわけではない。設定はけっして緊迫していない。むしろ、穏やかだ。
地上と天界の間には、生きるか死ぬかの瀬戸際にある人間が宿泊する老舗旅館があって、そこにやってきたのが、交通事故で臨死状態の主人公のん。彼女はこの旅館で、腹違いの姉ふたりと出逢い、そこで働くことになる。
三田佳子は、この旅館に長く居座っている客のひとりを演じている。いわばベテラン客。彼女は新入りののんに対して、あれこれ指示を出す。やれ、食事の並べ方が悪いだの、タイミングがなってないだのと。
どの飲食店にもいる、悪しき常連客である。
と、ここまで書けば、その後、どのような展開になるか、おおよそ見当はつくだろう。そう、あなたが思ったとおり、のんの奮闘で三田佳子は心を開き、のんを信頼するようになる。だが、重要なのは、こうした定番のお話の流れではない。
言うまでもなく、当初、三田は鼻にもかけない。だが、やがて、のんが繰り出す語りかけに、我が身を鑑み、いまだ現世に戻るべきか、あの世に逝くべきか、決めかねている事実に向き合うことになる。
これは、この一風変わった物語の基本ルールなのだが、本作はあまり説明せず、三田佳子とのんのやりとりこそが真実を担うのだと言わんばかりの潔さで、このふたり芝居にすべてを託す。
かくして、新米仲居・のんは、ベテラン客・三田の心のほつれに近づき、まさぐり、しかし、どこまでも平明で優しい、気負いの一切ないカジュアルなアプローチで、三田の混沌を解きほぐすのだ。
生まれたての粋。
のんの、のんだけの、手ぶら戦法。ボクシングで言うところのノーガードなファイティングスタイルに、三田は動揺する。そして、揺れ動いたからこそ、『鉄道員(ぽっぽや)』の高倉健が広末涼子に対してそうしたように、ありったけの演技を惜しみなく返すのだ。
そこには、ベテラン対若手などという陳腐な構図は存在せず、ひとりの演じ手とひとりの演じ手がいるだけだった。互いに対等な者同士が、今・このときの死力を決して、ただ渡り合う。そうして、神々しいまでの光がこぼれ落ちる。あまりにも眩しくて、私は落涙した。
なんという、健やかなフェアネス!
すこぶる無垢なのんに気圧されながらも、踏ん張る三田。だが、百戦錬磨の手練手管でねじ伏せるのではなく、のんが素直に投げた球を、打たずに素手でキャッチし、素手で投げ返す。のんがそうしたように、あくまでも平明な優しさをまとったまま。心臓を交換し合うかのような、静かなる決闘=デッドヒート。もちろん、両者とも自分自身の役をまっとうしながら、だ。
すごい。すご過ぎた。
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