ゆうめい・池田亮:結婚への不安を植えつけた両親を描き、実父を本人役に起用する演劇『姿』
親への葛藤を題材とした作品は数多いが、実の両親を自分の創作物に参加させるケースはあまり多くはないはだろう。5月18日より、東京芸術劇場シアターイーストで開幕する劇団ゆうめいの『姿』は、作・演出の池田亮が、実の両親の離婚をモチーフとした作品で、実父が俳優として出演、実母もナレーターとして参加している。アニメやテレビ番組、VTuberの作家として活躍する池田が、なぜわざわざ「儲からない」と言われる演劇を作り、わざわざ自分の肉親を題材とするのか、その理由を記した。
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目次
マイナス10割でも演劇を作りたい
初めまして、池田亮と言います。普段はアニメ『ウマ娘』シリーズやNHK Eテレ『天才てれびくん』のドラマの脚本を書いたり、VTuberの作家をしたり、アプリゲームのライターをしたり、「ゆうめい」という団体で自分や他者の実体験をもとに演劇作品を作ったりしています。ちなみに主な収入源は9割が「ゆうめい」以外で、「ゆうめい」での演劇は1割かもしくは0割だったり、今のコロナ禍だとマイナス10割だったりします。
所属している作家事務所から届く給料明細書では、舞台の稽古期間から本番期間の月数がすっぽりと抜けて空欄になることがしばしば。そんな自分が今最も作りたくて作っているのが演劇でして、こちらの記事では「なんで演劇を作るの?」というのを池田的にお答えしたいと思います。
演劇にある「今でしか観せられないもの」という特別さ
演劇では、ほかの仕事の実体験や培ったものをゴリゴリに取り入れています。自分が脚本を担当した、競馬をモチーフとした親子の絆を描く明るい内容のアニメが初めて放送された日に、現実では競馬やギャンブルが嫌いな母から「何これ?」と嫌悪されたり、子供が生まれ父親になった知り合いから「この前ムカついて子供蹴っちゃったんだけどなんかスッキリしてさ、これどう思う?」みたいな相談のLINEが届いたりと、アニメとは真逆の出来事が放送中のリアルタイムで起こっていて「アニメの世界に逃げさせて!」みたいな裏側を演劇で描きました。また、VTuberの収録で使った「斉藤さん」(不特定多数の人と匿名で通話できるアプリ)を劇中に用いて、上演中に会場外の全然知らない人と通話することもありました。
自分にとっての演劇は、日常や仕事で培ったり体験したりしたことで、あまり直接人に伝えられない言語化できていないものも、即座に取り入れられるスポンジのような表現手段で、「今でしか観せられないもの」みたいな特別さを感じています。
悲劇を悲劇以外として描く「演劇界のコミックエッセイ」
以前、ゆうめいを「演劇界のコミックエッセイ」とレビューしていただいた方がいて、もしかするとそうかもしれないと思いました。もとになる題材や体験は、現実ではひどく悩んだり答えがまったく見えなかったりするものです。しかし、演劇にすることによって時には笑えたり、つらいだけだと思っていた感情が変化することに気づけたり、「あれってそういう見方もあったかも」という発見があったり。ゆうめいではよく、悲劇を悲劇以外として描きます。環境が変わると生き方も変わっていくように、劇場という場から地つづきの現実を描くことによって、その場にいる方々とも新たな環境が生まれると考えています。
そのように、演劇以外での表現をさまざま取り入れながら、自分や他者の実体験をもとに作品を作ってきました。たとえば、『弟兄』という作品では、僕のいじめ体験を題材にしており、当時のいじめっ子に許可取りをして実名を使うかたちで演劇作品に登場させたりしております。
両親の離婚を作品にしたきっかけは、自分の結婚
そして、この5月18日より東京芸術劇場で開幕する『姿』再演は、国家公務員としてオリンピック関連の仕事にも携わる母と、定年を迎えた父が別れる話です(『姿』初演は2019年に三鷹市芸術文化センター星のホールにて上演)。
自分の現実をもとにしていて、定年を迎えた父役は僕の実父が演じます(実父の芸名は「五島ケンノ介」)。
母や父、自分たちを知っている人から聞いたことや取材したことをもとに脚本を書いて「どうしてこうなったんだろう」というのを発表する!みたいな内容となっております。
2019年に自分は結婚したのですが、そのときから以前にも増して「親」というものについて考えるようになりました。自分の親がたびたび「別れる、離婚するしかない」とケンカしていた記憶や、仕事でかなり遅くなっても帰ってこない母や父を見ていた幼いときの記憶をもとに、子供の自分が見えないところで何が起こっていたのだろうと気になり出したのが、『姿』を作ったきっかけかもしれません。
小学校のころの親のケンカは、猛烈に嫌だったにもかかわらず記憶に焼きついています。「ふたりのケンカは、自分がいるせいなんじゃないか」と勝手に思い込んでいた時期もありました。そういう記憶を引きずっているせいで、今の自分が結婚というものに少なからず不安を感じていたことに気づき、だったらもう、自分の先輩であり、身近で見てしまって大きな衝撃を残した根源である親から「どうしてこうなったか」を聞こうと思い立ちました。奇跡的に幸運だったのが、母も父も芸術や演劇や表現を行うことについての造詣が深かったことです。
池田家で最も強い、母という存在
母は池田家で最も強い人であり、逆らえない存在でした。逆らっても返り討ちに遭う。自分の兄はよく母に反発していたのですが、僕の目からは打ち勝った瞬間が一度もなく、そのせいで自分が反抗してもダメだという思い込みが高校ぐらいまでつづきました。中学のときは特に「親を尊敬しなければならない」と考え、別にそう教育されたわけでもないのに自分からわざわざ敬語を使っていました。
学校に行きたくなくても親に失礼だから行かなくちゃならないし、「行きたくない」なんて言ったら「なんのためにお前のために働いてると思ってる」みたく怒られそうだったし、実際にそう言われたこともあり、なおさら自分を責めるようになりました。日曜日には母が家にいるので、毎週リビングで過ごすときや食事のときに神経を使わなければみたいな感覚があり、緊張していました。
美術が好きだったので美大に行きたいと母に恐れながら言ったときは「実は私も絵を描いてさあ、学校も通ってたんだよね」と全然知らなかった過去話をたくさんされまして、てっきり反対されるものだと思っていたのでそれはとても意外でした。そのときに、母は芸術を機として自分のことを話せる、話したい人なんだなと知りました。
再演のために改めて母と話す機会があり、今はプレイベートだとだいぶ敬語は減った気がします。ただ、母が退職後に声優をしたいことや芸能関係が気になるといった話をするときはほとんど敬語になります。仕事というフィルターを通したときには、敬語でのやりとりがかなりしっくりきています。
母自身が観劇したあと、飲みながら5時間トーク。帰り道に前歯を折る
最初の脚本を読んでもらった反応は、母からは「都合のいいこと言っちゃって、わかってない」、父からは「わかってないよ、これ俺じゃないよ」というものでした。確かに僕だけの目線で描き過ぎていた面が多々あったので、よりいろいろ聞いて変えていった面もあります。「親として息子に対してこれは言えない」ということもあったかと思いますが、そこは作品作りのために、正直に伝えていただきたいとお願いしていました。
初演のとき、母が観客として観に来る回があり、前説も務める父はほかのキャストの方々から「お父さん、今日お母さんがいらっしゃるみたいですけど、大丈夫ですか?」と心配されていました。父は「何言ってんだよ、俺は俳優なんだからそんな影響なんて全然ないよ」と返事をしていたのですが、しょっぱなから前説のセリフを飛ばして無音の状態を生み出し、その後も何を言ってるかわからないほど緊張していました。あとから聞いたら「一番最初に客席をふっと見たら、(母と)真っ先に目が合って、頭が真っ白になった」そうです。
母の場合は、初演の『姿』を観て、忘れていた感情を呼び起こされたと言って、そのあと一対一で会い、お酒を飲みながら、母が生まれてから今までのことを事細かに5時間ぐらい話してくれました。自分が知らなかった「裏の歴史」を夢中で聞きました。母と別れたあとに緊張が解けたのか、帰りの電車で急に酔いが回ってしてしまい、駅のホームでめまいがして転び、前歯を折る事態になりました。でも、家で家族として食事をする雰囲気より、全然このときのほうが楽しかったし、母を母ではなく、人として見て話せた気がしました。
池田家総出のアフタートーク、開催決定するも……
『姿』の後、母と父は以前より仲よくなったというか、お互いの情報をいち早く共有していることに気付きました。今度の『姿』再演ではアフタートーク出演の依頼を母に出したのですが、その次の日に父にも依頼を出すと「聞いたよ」とすでに詳細を知っていたりと、母と父の共有事項が増え、結束が強くなっていることを感じました。晴れて、5月23日の上演後には、実物の池田母と池田父が登壇するアフタートークを開催する運びとなりました。
しかし、新型コロナウイルス感染症予防ワクチン接種への対応や緊急事態宣言の延長に伴う業務が増えたため、5月12日に母から「自治体の職員としての本職を今は優先させていただきたい」との連絡をもらい、今回は登壇を見送ることとなりました。
『姿』の劇中で母役を演じる高野ゆらこさんが代わって登壇します。母から事前に預かった質問や、『姿』初稿の脚本へのダメ出しや添削について、今回のアフタートークでさまざまお伝えしようと考えています。また、兄にもアフタートークに登壇してもらうことになりました。
以前、演劇の劇中歌を兄にお願いしたことがあります。兄が公務員として働きながらたまに曲を作ってネットに上げていたことを知り、またその曲がとてもよかったのです。そこまで話したこともなかったし、仲がいいというわけでもなかったけど、曲を作ってほしいとお願いしたときはうれしがっていて、今まで兄とLINEした数の100倍ぐらい多くLINEし合って、でき上がった曲を聞いたときは、兄でなくミュージシャンとして彼を尊敬したほどでした。
兄弟ではなく、共に作品を作る相手として会話するようになり、共感できる部分がたくさん生まれました。「実は仕事だけじゃなくてこういうこともしたかったんだよね」と言って笑った兄の顔を見て、こういう瞬間を描きたいと思いました。自分の知らなかった人の新たな側面を知った現実の出来事を、今回の『姿』再演でも描いていきたいです。
本来ですと、母は今年退職だったので、自由の身になっていろいろなことに挑戦したいと意気込んでいました。なので芸劇進出の暁には母本人にもぜひ出演していただこうと考えていました。ですがコロナの影響もあってもう1年職場に留まることになり、今もまだ現役で働いております。そういったことも含めて、初演時に2021年の様子を描いていた『姿』を、現在の視点から改めて作り直し、母や誰かがいつかやりたいことを実現するための願いを描きたいと思っています。
仕事をつづけていても、定年を迎えたあとも、芸術が側にあることを母は重んじているし、それが少なからず救いになっていたと思います。それは自分も同じで、生きていくなかでの興味を生むものであったし、「こうだ」と決めつけていたものを解したり、「いややっぱりこうだ」と自分の中で再確認できるものなので、上演を機に、改めて今後を考えて探っていきたいです。
2020年に起きたことと「演劇では食べていけない」と聞くこと
2019年の初演時には台風に見舞われましたが、今回はコロナに苦しんでいます。2020年は、たび重なる公演中止を中心に、頭が重くなることばかりでした。メンバーの精神的不安を解消すべくサポートの手を尽くせど、抱え過ぎたのか自分も混乱してコントロールできなくなることもありました。本当にさまざまな方々に迷惑をかけたし、傷つけてしまったときもありました。誰かの言葉に耳を傾けたはずなのにしっかりと理解できていなかったり、自分が「こうしたほうがよいです!」と言っても耳を傾けてくれないことに「信頼されてないんだな」と必要以上に落ち込み、気持ちが下がる一方だった気がします。
今もまた緊急事態宣言下で、「演劇では食べていけない」ということを以前にも増して何度も聞くようになりました。観客も公演する側も不安がつづくなか、予算も収入の見通しが確実でなかったりと「なぜやるのか」という問いを常に持ちつづけています。
ただ、団体としても自分としてもおもしろいことをこれから何年先もやっていきたいし、更新していきたい。それに、ゆうめいのメンバーはめちゃくちゃおもしろいという思いには変わりがありません。そのおもしろいは「笑える」だけではなくて、つらいと思っていたことが別の意味合いに変わるおもしろさでもあります。
さまざま書いてきましたが、「食べていけない」と言われながらも、演劇をつづける理由は、家族や演劇といった枠を飛び越えて、その人の生きてきた今までを知ることを現在猛烈に求めているからです。
ゆうめいの由来は「夕と明」「幽明」人生の暗くなることから明るくなるまでのこと、「幽冥」死後どうなってしまうのかということからきています。「有名になりたいから“ゆうめい”なの?」と普段思われがちの名前から、由来のように「物事には別の本意が存在するかもしれない」という発見を探究する団体として、これからも演劇を作っていく所存です。