ハルを通して考える自尊感情の不全
レゴシが自身の特権性・暴力性・加害性と向き合っている一方で、レゴシの正反対の属性、つまり草食獣で、小型種で、メスであるウサギのハルは、また別の生きづらさの渦中にいる。
ハルは感情豊かで愛嬌があり、ストレートな物言いで積極的に自己主張するキャラクターだ。ただ、その明るいトーンとは不釣り合いに、言っていることの内容には根本的な自尊感情の不全をありありと感じ取れる。そしてこの自尊感情の不全、メンタルヘルスの問題は、人間社会においても近年関心の高まっているイシューである。
ポップカルチャーは時代を映す鏡だ。音楽でいえば、ダークポップと呼ばれるビリー・アイリッシュの音楽がわかりやすい例だろう。楽曲のテーマとして積極的にメンタルヘルスにまつわるモチーフを取り入れ、若年層からの共感を獲得している。
またヒップホップにおいては近年、エモラップと呼ばれるサブジャンルが隆盛した。この一群が現れたことは、ひとつ象徴的なことと捉えられる。エモラップにはメンタルヘルスのディスオーダー、孤立、依存症などをテーマにした内省的・感傷的な楽曲が多く見られる。
ドラッグ、ビッチ、ゲットマネー、バイオレンスといったモチーフが頻出するマッチョな価値観が長く支配的であったヒップホップの世界においても、メンタルヘルスの問題は語られて”自然なこと”になった。それは翻って、メンタルヘルスの問題が今それだけポピュラーで切実な問題である証左と見なすことができる。
『BEASTERS』には同様のテーマに対する非常にコンシャスな姿勢が窺い知れる。特に自尊心の不全をキャラクター個人の問題として終始させず、社会構造に起因するものとして描いていることは特筆すべき点だ。
草食獣、小型種、メスという社会的に“弱者”と見なされる属性の複数かけ合わせの身の上を生きるハルには、社会をひっくり返そうという気概はまったくない。いくつもの強者属性を持っている、つまり社会において”発言力”を持っているレゴシと違って、ひっくり返せるとはとても思えなくなるような月日をこれまで過ごしてきたから。世の中の不均衡を承知の上で、その枠の中でできる限り楽しく過ごしたい、というスタンス。そうした諦念に似たハルの人生観(獣生観)は、自分自身を限りなく軽視した上で成り立つ自暴自棄なものだ。
ただ、彼女は”反撃可能な立場”にいない。弱者属性をいくつも併せ持つ「小型草食獣のメス」として、社会に安全を保障されず、日々身の危険にさらされながら生きるうち、ごく自然と自分を大事にできない性癖が形成されていったことは想像に難くない。それもそのはず、世の中が彼女を大事にしていないのだから。それゆえ彼女はあらゆる場面で非常に無防備で、自衛の意識が低い。
こういった態度には、「どうせ声を上げてもこの職場は変わらない」とセクハラを受け入れてしまったり、「どうせ転職しても似たような労働環境だろう」とブラック企業に勤務しつづけてしまう心理と同種のものといえる。社会構造が彼女ら彼らにこういった日々の「どうせ」を言わせている。彼ら彼女らに隣人として接するとき、「どうした、もっとがんばれ」という声がけはズレている。そうできない理由と、それに気づけない自分にまず目を向けるのが筋といえる。
そして彼女は、肉食獣のオスと“ベッドの上でだけは対等になれる”と感じることのできるセックスをプライドの拠りどころにしている。これもまた人間社会でもよく見られる状況だろう。
ただ、ハルは日々レゴシから君は特別な存在だ、大事だと言い聞かされて、次第に自尊感情が培われていく。
もっともハル自身はそれを素直に受け入れられない。ルイから変化を指摘された際、
「…本当に? ダサくない? 私」と返す。
男に影響されて変わるなんて”ダサい”、”負け”だというのが彼女が自身の現状に抱いている感覚だ。問題解決のために本質的な態度ではないだろう。認知の歪みと見なすこともできる。
ただ前述のとおり、本質的な問題解決に目を向ける上での土台になる自尊感情が社会構造によって損なわれているからこそ、こういった思考が生まれている。一方的な合理性を振りかざしてその良し悪しを断じること自体がまた、安全圏からそれを言える特権性ゆえのものだ。レゴシもこういった点でじゅうぶんハルに寄り添えていない場面があり、人間社会でもこうした“持っている前提の違い”による対話の困難さに直面する瞬間は生活の端々で訪れる。
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