「精神のユルフン」のすすめ。気持ちがゆるむには
富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、1980年)の「ああせわしなや」という1975年初出の随筆を読んでいたら、こんな一節があった。
マスコミュニケーションが加速度的に発達して、世界中のことが粗くではあるが広く知らされるようになって来て、却って自分自身がバラバラにされ、長持ちする意見など持てぬようになったという気がする。
『不参加ぐらし』富士正晴(六興出版)
45年前の意見だが「マスコミュニケーション」を「インターネット」や「SNS」と置き換えれば、そのまま今の時代にも当てはまりそうだ。それこそインターネット上には毎日億もしくは兆という数の言葉が溢れ、流れ、消えてゆく(この文章もそう)。自分の考えがまとまりかけてきたころには、世の中は別の話題に移っている。最近、そんなことばっかりだ。
『心せかるる』(中央公論社、1979年)は「おれは有用なことはほとんどしていないと思われる」との一文から始まる。
富士正晴は「無用の人」の立場から世間そして世界を眺めていた。そんな彼は中国の文化大革命に関心を持っていた。新聞を4紙とって、文革関連の記事を切り抜きする。
文化大革命がはじまった時、わたしは一向にわけが判らなかったが、郭沫若(かく・まつじゃく)の自己批判におどろきと共に、こいつめといった嫌悪感を抱いた。
『心せかるる』富士正晴(中央公論社)
富士正晴は『金瓶梅』の抄訳をしていた。ところが、郭沫若が中国の古典の抹殺を唱えていることを知り、「いささか以上の憮然たる感情」を抱く。『金瓶梅』も文革の時代には焚書の対象だった。
しかし「憮然たる感情」をおぼえつつ、何かをするわけではなく、ひたすら新聞を切り抜き、ダンボール箱に入れていた。「事がおさまった後に固め読みしてやろう」と考えていたのだが……。
『心せかるる』は文芸誌『海』にほぼ隔月で連載していた。わたしは『海』が日本でいちばん好きな文芸誌である(もうないが)。
憮然は不機嫌や不快感を表す言葉として誤用されがちだが、本来は「呆れてぼうっとする」といった意味。自分の力が及ばず、失望、落胆するといったニュアンスもある。もちろん富士正晴は本来の意味合いで使用している。
富士正晴は新聞4紙を読み比べていたが、古典の愛読者でもあった。南北朝時代の宋の古典『世説新語』が好きだった。
インターネットを1時間見たら、同じくらいの時間、古典を読む。そうするといい感じに気持ちがゆるむ気がする。
確かな答えは時の審判にゆだねるしかない。世の中のご意見番でもなんでもないわれわれは焦ってすぐ答えを出す必要はない。大切なこと以外は「どっちでもかまわぬ」と保留し、信憑性のない情報を鵜呑みにせず、「精神のユルフン」を心がける。
頑張っている人の足を引っ張るようなことはしたくないのでなるべく余計なことは言わないようにしたい。それが難しい。
■荻原魚雷「半隠居遅報」は毎月1回更新予定です。
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気力・体力・好奇心の衰え、老いの徴候、板ばさみの人間関係、残り時間…人は誰でも初めて中年になる。この先、いったい何ができるのか―中年を生き延びるために。“中年の大先輩”と“新中年”に教えを乞う読書エッセイ。
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