自分を発見し、自分を見守り、自分を検討する。人生の一大事業――臼井吉見の言葉(荻原魚雷)

2020.10.30


自分は不完全な人間であるという自覚をなくすと他人に厳しくなる

他にも臼井吉見には『教育の心』(毎日新聞社、1975年)という講演をまとめた本がある。『自分をつくる』と内容は重なっている部分も多い。

『教育の心』(臼井吉見/毎日新聞社/1975年)

「青春と文学」という講演ではこんなことを語っている。

自分を発見し、自分を見守り、自分を検討する、そういう人間の一大事業、たいへんむずかしい、しかしやりがいのある、それがあるために、〈人間〉とも言えるような、そういう一大事業の手助けをしてくれるものの一つに文学がある。

『教育の心』(臼井吉見/毎日新聞社/1975年)

20代の頃のわたしはいわゆる文学青年だった。臼井吉見の本を読んだのは20代半ばくらい。初読の際は古くさいと思った記憶がある。くどいと思った。おもしろ味は感じられなかった。だけど、頭の片隅のどこかで、大事なことが書いてあるという気がしていた。

日本の文学は「秀才文学」と「落第文学」に分かれる――これも臼井吉見の持論である。

「秀才文学」は教養があり、洗練されているが、人の苦労、生きづらさがわかっていないことが多い。臼井吉見は「落第文学」として、葛西善蔵や宇野浩二、川崎長太郎といった名前を挙げている。いずれも貧乏や病気で苦労した作家である。彼らは怠け者でもあった。わたしは「落第文学」に耽溺した。

人にはさまざまな優先順位があり、好き嫌いがあり、向き不向きがある。自分の興味のあるものには詳しく、そうでないものには詳しくない。あらゆることに知悉(ちしつ)している人間はいない。たとえば、健康な人は不健康な人の気持がわからない。男は女が、女は男がわからない。

ある人にとってのプラスは他の誰かにとってマイナスになることもある。

自分は不完全な人間であるという自覚をなくすと他人に厳しくなる。自分では正気と思っていても傍から見ればそうではないことはいくらでもある。

――自分を発見し、自分を見守り、自分を検討する。 

終わりのない難事業だ。気長にのんびりやるほかない。

■荻原魚雷「半隠居遅報」は毎月1回更新予定です。


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  • 荻原魚雷『中年の本棚』(紀伊國屋書店)

    気力・体力・好奇心の衰え、老いの徴候、板ばさみの人間関係、残り時間…人は誰でも初めて中年になる。この先、いったい何ができるのか―中年を生き延びるために。“中年の大先輩”と“新中年”に教えを乞う読書エッセイ。

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