日曜朝、松本人志『ワイドナショー』(フジテレビ)への世間の空気を観ながら、ドイツ人としてテレビコメンテーターも務めるマライ・メントラインは考える。「この日本で、新鮮な『道理』が作られる場はどこなのか」。思索の旅は、90年代的たけしの言説と今の松本人志の言説の類似点を発見するところから始まる。
松本人志を好かない「中の人」
ネット言論の定番的情景で興味深いもののひとつに「『ワイドナショー』に対するインテリ業界の嫌悪感」がある。
これについて「芸人に政治や文化を語らせることの限界」とか「権力筋の意向に沿いやすい(とインテリ側から見える)松本人志の姿勢」とか、いろんな超ありがち議論の筋書きを語ることも可能だが、この場でおそらくそんな話はお呼びでない。私が重要だと思うのは、そうしたアンチ松本人志的な(特に年嵩の)インテリな方々のけっこう多くが、一方でたとえば『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)を言論的知性の原体験っぽいものとして懐かしんでおり、そして、90年代的たけしの言説と今の松本人志の言説には「直観的知性」として類似点が極めて多いことだ。
なぜ昔のたけしはOKで今の松本人志はNGなのか。
「昔はモラル的に大雑把だったから」という解釈はいたずらな思考停止を呼ぶので、それ抜きで考えたい。
まず大きなポイントとして、
・松本人志は深夜枠向けの言霊をゴールデンタイムや日中に放ってしまう
・昔に比べて今はそれが悪目立ちする
というのがあるだろう。
では、なぜ悪目立ちするのか?
アラフィフなオヤジ知人とこれについて議論する中で出てきたのが「あの手の、妙に知的要素をはらんだ笑いってだいたい既存権威・権力を茶化すんだけど、それが、ビートたけしの全盛期あたりではわりと体制的権力をターゲットにしていたのが、松本人志の時代ではインテリ的権威にシフトした感がある。そのへんがいろんな違いを生んでいるのではないか?」という説だ。論理的実証は難しいだろうけど感覚的記憶を是とするならば、なるほどそれは、インテリ業界の「中の人」が松本人志を好かないことの直接的な説明になっている感がある。
ついでにいえば、体制的権力が怨嗟よりも笑いのネタにされる時代は得てして余裕があるのだそうで、だとするとこれは、けっこう笑うに笑えない事実を暗示しているかもしれない。
関連記事
-
-
「奪われたものは取り返すつもりで生きていく」FINLANDSが4年ぶりのアルバムで伝える、新たな怒りと恥じらい
FINLANDS『HAS』:PR -
牧場バイトからアイドルへ、かてぃが歩んだ多彩な仕事遍歴
求人ボックス:PR