兄から金を盗み、仕事道具を質に入れ、施設を脱出し強奪して酒を飲む。元・天才作家の“地獄の週末”が映し出す人間の業に感じた「それでも生きてみようか」(石野理子『失われた週末』レビュー)
2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。
第22回は、ビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』。数々の名作を世に送り出したワイルダーが、アルコールに囚われたひとりの作家の週末を描いた1945年の作品。第18回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞の4部門を受賞。公開から80年以上を経た今も、人間の弱さを容赦なく見つめた一本として映画史にその名を残している。
スクリーンの向こうにいるはずの人物の焦りや苦しさが、いつの間にか自分の感情と重なっていく——。映画を観ていると、ごく稀にそんな瞬間が訪れる。ワイルダー作品を愛する石野にとっても、特別な映画体験になったという本作。絶望の週末を過ごすひとりの男の姿から、石野が感じ取ったものとは。
『失われた週末』あらすじ
ニューヨークで暮らす作家ドン・バーナムは、深刻なアルコール依存に陥っていた。禁酒のため兄と週末旅行へ出かけるはずだったが、酒への欲求を断ち切ることができず、ひとり街へと繰り出してしまう。兄や恋人の支えにもかかわらず酒を求め続けるドンは、次第に心身ともに追い詰められていく。たった数日間のなかで浮かび上がる、彼の過去と苦悩、そして作家として抱えてきた葛藤とは。
※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。
主人公と“同期”する映画体験
映画を観ていると稀に、主人公の置かれている状況や感情に完全に同期したような気持ちになることがある。その人の人生の一部、一瞬を体験したような感覚だ。近年の作品だと、クリント・イーストウッド監督の『陪審員2番』でそのような体験をした。主人公の覚える罪の意識が私にまで伝わってきたのだ。今回の「シネマ基地」では、そんな数少ない体験のひとつとなったビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』を取り上げたい。

そもそもビリー・ワイルダーの名作と呼ばれている『アパートの鍵貸します』『情婦』『深夜の告白』『サンセット大通り』などの作品は、多面的である人間のおもしろさをこれでもかと引き出していて、私も大好きな作品たちである。好きな作品が多いからこそ、私に稀有な体験をもたらしてくれた『失われた週末』は少し特別だ。
「砂袋を外した気球のようだ」
主人公のドン・バーナムは、アルコール中毒の小説家。まわりを巻き込んで「お酒をやめる詐欺」を何度も繰り返している、どうしようもない男だ。お酒に囚われた生活を送っており、お酒を連想してしまうため液体の名前すら聞けないほど。
物語の冒頭、バーナムとその兄が週末の旅行に出かける準備をしている。旅行の目的には禁酒も含まれていた。兄はこれまでもお酒を処分するなど弟を心配して厳しい態度をとってきている。それも掻い潜り、バーナムが必死にお酒にありつこうとする様は、どこか滑稽だ。
バーナムは週末の旅行になど興味はなく、頭はお酒のことでいっぱいだ。お金も底をついていたが、偶然、兄が自宅に置いて行った現金を見つけ、こっそり家を抜け出す。
真っ直ぐ行きつけのバーへ向かうと呆れているバーのマスターに、彼はこう言い放つ。 「酒を側に置いておくだけで安心するんだ」「肝臓にも腎臓にも悪い。だが精神は違う。砂袋を外した気球のようだ。自信に満ちあふれ、不可能なことを可能にする」と。 結局、彼は旅行になど行けなかった。
このあたりから、アルコール依存症の底知れぬ苦悩が見えてくる。「小説を書くために、恋人とも出会い、お酒に溺れている」と語るバーナム。彼がお酒をやめられないのは、単なる意志の弱さではない。兄がうんざりしているのも、恋人が必死に自分を助けようとしていることにも気づいていて、けっして無下にしているわけではないのだ。
こうなってしまった原因は、彼自身が一番よくわかっていた。 かつては「ヘミングウェイの再来」と呼ばれ、天才として10代を過ごしたバーナムは作家を目指した。ニューヨークへ出て本を数冊出したものの、どれも成績はパッとしなかった。新しい作品に取りかかったあるとき、お酒を飲むと小説の全貌が見えるようになる。しかし、お酒が切れるとそのビジョンは蜃気楼のように消え去る。絶望をお酒で紛らわせ、気つけにまた飲む。終いには仕事に必要なタイプライターまで質に入れ、自殺するために買ったピストルすら、お酒に変わってしまった。
私は、彼は完璧主義で、プレッシャーや強迫観念に押しつぶされ、自暴自棄や自己嫌悪という抜け出せないループにもがいているのだと思った。 バーナムがお酒に酔ったときの独特の視点や、曖昧になっていく時間経過を一緒に追ううちに、だんだん彼の焦りやもどかしさ、罪悪感が、まるで自分ごとのように感じられてくるのだ。
階段からの転落を経て、バーナムは依存症患者の施設送りとなる。彼の血中アルコール濃度は96プルーフだった。夜中に人目を盗んで脱出を試み、帰り道に早朝の店で酒を強奪して帰宅する。ようやくお酒を手に入れて安堵したのも束の間、病院の看護師が言っていた禁断症状である幻覚が見えるようになる。
バーナムは追い込まれ、こんなことを考える。自分のために命を絶つ。 極限状態に追い込まれた「ドン・バーナムはとっくに死んでいる。死因は、アル中、神経衰弱、恐怖に幻覚。才能もお酒で失った。酒の海で溺れ死んだ。もう手遅れなんだ」と自身を悲観するが、最後まで見放さなかった恋人に生きる理由を見出す。
そして彼は、酒と男と女、そして自分を襲う悪夢や恐怖を乗り越えるために、この週末の地獄のような出来事を書こうとする。
人は生きていくしかない
私たちは、何かに縋(すが)りたくなるときがある。
その対象はアルコール、薬やタバコやギャンブル、あるいは人だったりもする。それに縋ることを一概には悪だと思えないし、私のなかにもきっとそういう瞬間はある。いや、と言うより、人間はもともと頼りない存在なのかもしれない。だから、人間の持つ脆さや弱さは、無理に克服しようとしなくても、自分の自然なリズムやタイミングで少しずつ変化していくものだと思っている。「なりたいものになれない」と嘆いていたバーナムも最後、ようやくリスタートのきっかけを見つけた。
自分の弱さを認める、受け入れることは、想像以上にしんどい。しかし、絶望の週末を抜けた先で、彼はようやく書くこと、生きることへの本当のスタートラインに立った。不安定の連続でも、人は生きていくしかない。バーナムのような不器用すぎる人間の業をここまで描いてくれたからこそ、どうしようもなさを抱えたままの私も、「それでも生きてみようか」と、なんだか背中を押してもらえるのだ。
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