話題沸騰の劇場アニメ『ルックバック』が、6月28日(金)より劇場公開されている。
原作は、『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』(ともに集英社)で知られる藤本タツキの同名マンガ。2021年7月19日に『少年ジャンプ+』で公開されるやいなや、SNSを中心に大きな評判を呼び、初日だけで閲覧数250万を記録。2022年度「マンガ大賞」にノミネートされ、「このマンガがすごい!2022」のオトコ編では1位に輝いた。
果たして本作は、アニメーション作品としてどのような進化・深化を遂げたのか。本稿では映画版のあらすじを解説しながら、その内容について考察していく。
作品の結末や原作との変更点など、ネタバレを含むレビューです。未見の方はご注意ください。
目次
心を深くエグる「フツーだな」という言葉
『ルックバック』は、嫉妬と才能の物語だ。
学年新聞で4コママンガを描いてる小学4年生の藤野(河合優実)は、自分の画力に絶対の自信を持っている。だがある日、不登校の同級生・京本(吉田美月喜)が描いたマンガの完成度に圧倒され、初めて敗北感を味わう。
彼女の心を深くエグったのは、「京本の絵と並ぶと藤野の絵ってフツーだな」という同級生男子のセリフ。マンガでも藤野がこの言葉を思い出して絶望感に苛まれるというカットがあるが、アニメではこのセリフがより露悪的で挑発的なしゃべり方になっており、京本の絵にザワつく生徒たちの数が不自然なくらいに増殖するという、イヤーな妄想シーンも追加されている。監督の押山清高は、藤野の暗黒心象風景をよりブロウアップさせて、彼女の絶望をまざまざとスクリーンに焼きつける。
「4年生で私より絵がウマい奴がいるなんて、絶っっ対に許せない!」
嫉妬に燃える藤野は参考書を買いそろえ、イチから絵を勉強し直す。朝も昼も夜も、雨の日も風の日も、毎日毎日描き続ける。だがそれでも、京本のマンガは常に藤野の遥か先を行っていた。残酷なまでに白日の下に晒される、才能の差。藤野はすっぱりとマンガをあきらめ、友達とアイスを食べに行ったり、姉と一緒に空手教室に通ったり、普通の小学生として日々を過ごすようになる。
「嫉妬と才能」というテーマを裏づけるギミック
印象的なのは、藤野の部屋に映画『アマデウス』のDVDが置かれていたこと。第57回アカデミー賞で最優秀作品賞に輝いた本作は、宮廷音楽家サリエリが、天才モーツァルトに激しい嫉妬を抱く物語。実は『ルックバック』の原作にこのようなカットはない。
『アマデウス』というモチーフを提示することで、嫉妬と才能というテーマをアニメ版ではより明確に打ち出している。
初めて京本と対面した藤野は、彼女から自分のマンガのファンだったことを告げられる。天賦の才能の持ち主は、誰よりも自分のことを認めてくれていたのだ。最上級の承認欲求が満たされ、有頂天になる藤野。やがてふたりは、「藤野キョウ」の共同ペンネームで漫画家デビューを果たし、着実に成功の階段を昇っていく。
サリエリとモーツァルトのように敵対するのではなく、藤野と京本は手を取り合って連帯するのだ。まるで藤本弘(藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(藤子不二雄A)によるコンビ、藤子不二雄のように。
藤子不二雄の足跡をたどった作品『まんが道』を読むと、本作もまた嫉妬と才能の物語であることに気づかされる。安孫子素雄をモデルにした満賀道雄は、藤本弘をモデルにした才野茂と出会い、そのマンガの才能に激しい嫉妬を覚える。それはドス黒い怨念と化していたが、その実力はたゆまぬ努力の成果であることを知り、素直に自分の敗北を認め、かけがえのない友情を紡いでいく。
真っ当かつ一途な青春物語を描くにあたって、嫉妬と才能は必要不可欠なファクター。令和版『まんが道』として、『ルックバック』はその系譜を見事に受け継いでいる。
主人公の名前の由来…藤本タツキの分身?
藤野+京本=藤本。間違いなく彼女たちの名前は、原作者である藤本タツキに由来している。
映画の入場者特典として配布された、原作ネームをまるまる収録した冊子『Original Storyboard』を読むと、主人公たちはもともと三船、野々瀬と名づけられていたことがわかる。藤本タツキは、自分自身を連想させる名字にあえて変更していたのだ。
勝ち気で、自信過剰な藤野。コミュ症で、自分に自信が持てない京本。<自己肯定的な自分>と<自己否定的な自分>という、作者の中に宿るふたつの人格が、別のキャラクターとして生み落とされたのだ。彼女たちは原作者・藤本タツキの分身なのである。
いや、正確にいうならば、藤野と京本はすべてのクリエイターの分身というべきかもしれない。
あるときは「自分が世界で一番才能があるんだ!」と己を鼓舞し、あるときは「自分に才能なんてひとかけらもない!」と己を卑下する。両極端の自意識で揺れ動きながら、それでも歯を食いしばり、必死の思いで作品を創り続ける。それが、ものづくりに奔走するクリエイターの内実なのだ。
クリエイターはみんな<ひとり藤子不二雄>である
漫画家の大童澄瞳や浅野いにお、アーティストの村上隆、映画監督の上田慎一郎、詩人の最果タヒ、お笑いコンビ・マヂカルラブリーの野田クリスタルといった面々が、マンガ『ルックバック』の公開時にSNSでリアクションを示したのは、藤野と京本に自分を見出したからだろう。あらゆる職業を超えて、彼女たちはクリエイターたちの心をつかんだのだ。
そして藤本という名前は、藤子・F・不二雄こと藤本弘とも合致する。クリエイターが<自己肯定的な自分>と<自己否定的な自分>というふたつの人格を内面に抱えているように、藤子不二雄という不世出の漫画家は、最初からふたつの人格を物理的に備えている。だだっ広い荒野で孤独な戦いを続けるクリエイターとは、みんな<ひとり藤子不二雄>のような存在なのだ。
ひょっとしたら藤本タツキはそこまで計算した上で、主人公に藤野と京本という名前を与えたのかもしれない。恐るべし。
マンガ→アニメでの再修正に見る「創り手の並々ならぬ覚悟」
マンガ版の『ルックバック』は、公開後にある箇所が修正されている。
美大に侵入した不審者によって12人の学生が殺害され、京本もその犠牲者となってしまったシーン。当初は「自分の作品が盗作されたと思い込み、肥大化した被害妄想によって凶行に及ぶ」という犯人像が描かれていたが、修正版では「衝動的で無差別な通り魔殺人」という設定に置き換えられた。
その背景には、「統合失調症患者に対する偏見や差別の助長につながる」という批判の声があった。ポップカルチャーに詳しい精神科医の斎藤環は、作品に対して最大級の賛辞を送りつつ、
やむを得ないとは思うけれど通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ。
斎藤環(@pentaxxx)2021年7月19日のツイート
とコメントしている。『少年ジャンプ+』編集部は熟慮の末に、修正に踏み切った。
だが本作が単行本で刊行された際には、犯人像は当初の設定に再修正され、今回のアニメ版もそれをなぞったものになっている。なぜだろうか。
『ルックバック』の犯人像は、確実に京都アニメーション放火事件から着想を得ている。京都アニメーションの第1スタジオにガソリンをまいて放火し、36人もの命を奪った犯人の動機は、「京アニに自作小説のアイデアを盗まれた」というものだった。事件の発生日が2019年7月18日で、マンガ『ルックバック』の発表日が2021年7月19日であったことにも、作者の強い意図が感じられる。京本の「京」の字も、おそらく京都アニメーション放火事件を暗示しているのだろう。
『ルックバック』は、嫉妬と才能の物語。それが最もドス黒いかたちで現れたのが、美大を襲撃する犯人だ。
彼が表象するのは、藤本タツキ自身の、そしてすべてのクリエイターたちの、<そうなっていたかもしれないもうひとりの自分>。
この作品は、「もしあのとき、藤野が京本と出会っていなかったら」という分岐宇宙的な<if>世界に潜り込んでいくが、この犯人もまた「成功することが叶わず、嫉妬が怨念と化していたら」という<if>自分なのだ。
創り手の心の奥底には、ネガティブな感情が渦巻いている。暴力的で、残酷で、醜悪な黒い塊が蠢いている。それを曝け出すことは、極めて個人的な発露であり、おそらく極めて勇気のいる行為だ。あらゆる批判覚悟で、あえてアニメ版『ルックバック』はその地平に降り立った。そこに筆者は、創り手の並々ならぬ覚悟を感じてしまう。
答えられない重要な問い「なんで描いてるの?」
アニメ版『ルックバック』は、藤野が机に向かって4コママンガを描いているシーンから始まる。カメラは部屋の隅に固定され、彼女の背中が延々と映し出される。そこに創作の高揚感は感じられない。ものすごい勢いで貧乏ゆすりをしながら、背中を丸め、孤独な作業に没頭している。
藤野は、なぜこんなに絵を描き続けるのだろう。なぜ魂を削り取られるような日々に、身を置くのだろう。彼女自身、「楽しくないし、メンドくさいだけだし、超地味だし、一日中ず〜っと絵描いてても全然完成しないんだよ? 読むだけにしたほうがいいよね。描くもんじゃないよ」という発言をしている。
「じゃあ藤野ちゃんは、なんで描いてるの?」
京本が藤野に素朴な問いを投げかけると、突然画面は真っ白な背景に覆われ、そのセリフが吹き出しで表現される。マンガではよくある手法が、アニメーションというアートフォームで再現されている。それだけこのセリフは、作品の中で重要な意味を持つはず。
だがその問いに、藤野は答えない。いや、答えられない。人から褒められたいわけでも、お金を稼ぎたいわけでもない。描くことに理由があるのではなく、描かざるを得ないから描いているのだ。彼女は、<業を背負った人間>なのである。
本作の監督を務めた押山清高は、脚本、絵コンテ、キャラクターデザイン、作画監督でもクレジットされている。アニメーション制作という集団作業において、彼は主要な作業をほぼひとりで請け負ってしまったのだ。きっと彼も藤本タツキと同じように、<業を背負った人間>なのだろう。
ひとりの漫画家が創り出したパーソナルな物語を、ひとりのアニメーション作家が一手に背負い、劇場用作品を産み出してしまった。『ルックバック』に込められている<創り手の想い>を感じながら、押山監督は日々孤独な作業を続けたのではないか。その結果アニメっぽい均一の線ではなく、描き手のニュアンスがそのままダイレクトに伝わる、パーソナルな表現となった。
58分に込められた、クリエイターの“業”
「振り返る」=過去の出来事を思い出す。「背景(back)を見る」=背景画を担当していた京本に想いを馳せる。
『ルックバック』にはさまざまな意味が込められているが、今回のアニメ版は漫画版よりも「背中(back)を見る」という表現にこだわっている。藤野の背中に始まり、藤野の背中で終わる構成からも、それは顕著だ。彼女たちが抱えた業を、最も端的に表現し得ると判断したからだろう。
背中というモチーフは至るところに登場する。藤野が京本から受け取る4コママンガのタイトルは『背中を見て』だったし、藤野は「京本も私の背中をみて成長するんだなー」という余裕綽々(しゃくしゃく)の発言をしていたりする。そして初めてふたりが出会ったときに藤野が書いたサインの場所は、京本が着ていたどてらの背中だった。
京本がこの世から去ったあと、藤野は彼女の部屋でそのどてらを発見する。大きく書かれた「藤野歩」というサイン。この瞬間、我々観客は彼女の名前が「歩」であることを知る。歩み続ける、という意味であることを知る。
大きな哀しみと喪失感を抱え、藤野はひとりペンを走らせる。物語を優しく締めくくるのは、haruka nakamura作曲・編曲、urara歌唱による主題歌「Light song」。パンフレットに掲載されているインタビューによれば、監督からは「エンドロールに希望や光に向かっていく讃美歌のような歌を」というリクエストがあったという。<業を背負った人間>に贈る讃歌。
『ルックバック』は、すべてのクリエイターたちに捧げられた、“業”の物語だ。
1時間に満たない58分という上映時間に、モノ創りのライトサイドとダークサイドが余すことなく描かれている。
やがてこの映画は、次代を担うクリエイターたちの背中を押す作品として語り継がれていくことになるはずだ。またひとつ、アニメーションの傑作が誕生した。
劇場アニメ『ルックバック』
■スタッフ
原作:藤本タツキ(集英社ジャンプコミックス刊)
監督・脚本・キャラクターデザイン:押山清高
美術監督:さめしまきよし
美術監督補佐:針﨑義士・大森崇
色彩設計:楠本麻耶
撮影監督:出水田和人
編集:廣瀬清志
音響監督:木村絵理子
音楽:haruka nakamura
アニメーション制作:スタジオドリアン
配給:エイベックス・ピクチャーズ
■キャスト
藤野:河合優実
京本:吉田美月喜
■主題歌
「Light song」
by haruka nakamura うた : urara
(C)藤本タツキ/集英社(C)2024「ルックバック」製作委員会
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