平成の小学生がニンテンドーDS『どうぶつの森』から得た“初めての自由”

文=長井 短 編集=高橋千里


演劇モデル・長井 短。平成5年に生まれ、平成を生き抜いてきた彼女が、忘れられない平成カルチャーを語り尽くす連載「来世もウチら平成で」。

今回は、2004年に任天堂から発売され、大人から子供まで幅広い年齢層に大ヒットした「ニンテンドーDS」を振り返る。

「ゲーム好きな私」を作り上げてくれた平成

「ゲームは1日1時間まで」なんてルール、私は作らない。だって守れないからね。

原稿の締め切りから逃げるようにハイラル王国を駆け回ったり、パルデア地方に推しを作ったり。私はゲームが大好きだ。

もちろん歴史は平成から始まる。実家にはファミコンとスーパーファミコンがあって、パパとママは若いころ、夜な夜なふたりで『MOTHER』や『ドラクエ』をやったらしい。もしかして、スチャダラパー「ゲームボーイズ」みたいな夜を過ごしたのかな? それって私と同じみたい!

初めて買ってもらったゲーム機は、もちろんゲームボーイカラー。NINTENDO64をサンタさんにもらって、ゲームボーイアドバンスも買ってもらった。

※画像はイメージです

これらすべての機械に並々ならぬ思い入れがあるから、最終的には全部書いていきたいんだけど、今日はニンテンドーDSの話をしたい。私が、一人前にゲームをしている実感を初めて得た端末だから。

ニンテンドーDS『おいでよ どうぶつの森』に没落

3回のモデルチェンジをすることとなった超爆発的大人気端末、その元祖が2004年発売のニンテンドーDSである。

当時私は10歳、小学校4年生だった。テレビで『さわるメイドインワリオ』のCMかなんかをやっていて、なんておもしろそうなんだと胸を高鳴らせた記憶がある。が、小学校4年生の私はちょっとこじれ始めていた。

なんかさ、ガキなりに家の財政を気にし出す時期、ない? 64をいっぱいやりたいけど、電気代は大丈夫なのかな?とか。今思い返すと、たかだか子供の64プレイ時間くらいで電気代はそうそう大きく動かないんだけど、当時はなぜかすごく気がかりだった。

その一環として、私はDSを欲しくないふりをしていた。まわりの友達は誕生日やクリスマスに、徐々にその神の端末を手に入れ始めているけれど、別に〜? あぁしはあんま、興味ないカナ? 『学校へ行こう!』のほうがおもしろいし? 不器用な強がりである。

しかし、それも長くは続かない。誰もがDSを無視できなくなったのは、2005年11月。『おいでよ どうぶつの森』が発売されたときだ。

(c)2005 Nintendo

もともとゲームキューブで『どうぶつの森』をプレイしていた子供たちの興奮は、すぐに未プレイ勢にも広がる。

「なんかあれ……やばいらしいよ?」

教室内の過半数がそれを手にするのは時間の問題だった。ママもその動向を察知していたようで、「今年のサンタさんからのプレゼントはDSかな?」なんてジャブを打ってきていた記憶がある。

しかし、とにかく私はひねくれてるから! この時点でもまだ自分の気持ちを認められなかった。

何? どうぶつの? 森? それ、何が楽しいの? 強い奴いんの? バカイキリにもほどがある。「いや、DSは興味ないかな」などと震えながら強がりを言って、あくまで欲しくない姿勢を貫いた。

「フルーツ系の家具でそろえたい☆」やら「最近引っ越してきたサイがうざい〜」「うち名産オレンジだからいくらでもあげるよ〜」日々繰り広げられる『おい森』トーク。それは、なんともいえない大人っぽさがあった。

(c)2005 Nintendo

DSの画面の向こうには、親も立ち入れない、自分だけの場所があるのだ。お金をやりくりして、家を建てて、お気に入りの部屋にする。それは、私たちが当時まだ持っていない自由だった。

あぁ……もう無理かも……陥落である。腹をくくった私はクリスマス直前のある日、ママに言った。

「やっぱり、DSと『どうぶつの森』欲しい」

するとママは「わかった」とだけ言って、アップを開始。

しかし、だ。クリスマス前のこの発注は東京中で起きていたのだろう。とにかくDSがない! 近所の伊勢丹にも、「みのる屋」っておもちゃ屋さんにも、少し離れたデパートにだってなかった。

その間にもどんどんDS所持者は増えていく。みんなが銀色の折りたたみの機械を持って、放課後公園にやってくる。うぅ〜欲しい! 早く欲しい! 一刻も早く!!

その気配を察したのだろう。ある夜、ママがリビングで興奮したように言った。

「DSあった!!」

パパが足で見つけてきてくれたのだ。しかもそれは国内で販売している普通のDSではなくて、アメリカのDSだった。探しても探しても見つからないDSは、どこかの街の小さなおもちゃ屋さんにポツンと1台だけあったらしい。

※画像はイメージです

なぜそれがアメリカ版だったのかはわからないけれど、私は街で誰も持っていない深い青のDSを手にした。

習い事を休んで『どうぶつの森』で家具を集めた日

それからはとにかく忙しかった。すでにスタートしている友達たちに追いつくため、私は来る日も来る日も木を揺らし、魚を釣った。

(c)2005 Nintendo

そうしてだんだん村は形になっていき、ある雪の土曜日。友達の家に集まって、みんなで通信することになる。

でもその日は習い事があって、だけど、でも、本当に本当に念願なのだ。しかも今日は雪。こんなに特別な日ってない。だから、私は、初めて習い事をズル休みした。

ピンと張り詰めた空気はきっと雪のせいだけじゃなくて、私は歯をガチガチ鳴らしながら、自転車をこいで友達の家に向かう。そして、ついに、通信したのだ。

(c)2005 Nintendo

3人の村を行ったり来たりしながら、ココアとか飲んで、先輩ふたりがくれる家具をほくほく集めて。それは忘れられない日になった。

幼なじみ8人と『マリオカートDS』お泊まり会

DSの日々は続く。次のブームはなんといっても『マリオカートDS』だ。

(c)2005 Nintendo

誰かひとりでも持っていればプレイできるという大盤振る舞いに騒然として、毎年決まってお泊まり会をする幼なじみグループは、一気に「マリオカート倶楽部」へと変化する。

広い畳の部屋の隅っこ、コンセントのまわりに集まって、8人でレース。ママたちに「寝なさい」って言われても、レースは終わらなかった。

(c)2005 Nintendo

なんてったって、DSは光る。ゲームボーイ時代と違って、暗くてもへっちゃらなのだ。しかも、電池だって切れない。

こうなりゃもう止まることはできなくて、私たちは毎年毎年布団を被ってレースを続けた。

大人になって試される“自由”と“責任”

おもしろいタイトルは無数にある。『脳トレ』も『えいご漬け』も、『リズム天国』だって外せない。

ソフトのおもしろさも素晴らしいけれど、それよりなにより、DSにはこれまでにない大人っぽさがあった。

画面が光ること。電池じゃなく充電式なこと。通信が簡単になったこと。そういう進化で、子供の世界はより自由で鮮明、そして自立したものになった。

どんな村にするかを自分で考えるのと同時に、どのくらいプレイするか、何をしたら友達が悲しむかも、前よりずっと自分で考えなくちゃいけなくなったのだ。

お前はどのくらい我慢できるのか。常に真っ青のDSに問われていたような気がする。初めて手にした自由。私だけの世界。

※画像はイメージです

度が過ぎてDSを真っぷたつに折られていた友達がいっぱいいた。誰か、私のSwitchのコントローラー没収してくんないかな。

そんなふうに叱ってくれる人はもういない。だから私は、画面の外にまで広がった自由な世界にちゃんと責任を持たないとなって、気を引きしめるのです。

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長井 短

(ながい・みじか)1993年生まれ、東京都出身。「演劇モデル」と称し、舞台、テレビ、映画と幅広く活躍する。読者と同じ目線で感情を丁寧に綴りながらもパンチが効いた文章も人気があり、さまざまな媒体に寄稿するなか、初の著書『内緒にしといて』を晶文社より出版。

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