リリー・フランキー論──ほかの誰でもない私自身であるということ。リリー・フランキー、生まれたての普遍。

2021.9.3

(c)2021『その日、カレーライスができるまで』製作委員会
文=相田冬二 編集=森田真規


大根仁、白石和彌、是枝裕和など、今の日本映画界を象徴するような監督たちから重宝され、俳優として唯一無二の存在感を発揮しているリリー・フランキー。彼の最新主演作『その日、カレーライスができるまで』が、2021年9月3日に封切られた。

ライターの相田冬二は、「映画とその作り手は、リリー・フランキーを求めてやまない」という。その理由とは──。

俳優の奥底にある魅力に迫る連載「告白的男優論」の第12回、リリー・フランキー論をお届けする。

【関連】佐藤健論──雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう

“リリー・フランキー”でいてくれること

リリー・フランキーはリリー・フランキーである。そう言い切ってしまえば、それでいいような気もする。それ以上、つけ加えることは何もない。いや、そもそも「リリー・フランキーはリリー・フランキーである」というトートロジー自体が、蛇足以外の何物でもない。

リリー・フランキーは媚びない。だから八方美人であったことなど一度もないが、とんでもない人気者である。

大根仁、白石和彌、是枝裕和。それぞれ現代日本映画のある側面を体現している3監督が、「こっちだよー」「こっちだよー」「こっちだよー」とばかりにリリー・フランキーの奪い合いをしている様には、微笑ましいを通り越して爆笑してしまう。

どうやら、それぞれの監督には「俺のリリー」というイメージ(妄想)があるようで、自作にこの俳優を招くとき、とっておきの場所(ポジション)を用意する。リザーブシート(予約席というより指定席である)、というやつだ。当店で一番眺めのよいところに座っていただいております、という印象がある。

つまり、リリー・フランキーは監督に媚びないが、監督はリリー・フランキーに媚びている。なんとも痛快な現象で、この痛快さこそがリリー・フランキー、とも言える。「もてなす」のではなく「もてなされる」。リリー・フランキーの特徴のひとつである。

リリー・フランキー – 真顔からの不敵な笑みが怖すぎる | Netflix Japan

大根仁はリリーに「愛すべきチャーム」を見出しており、それはジャンキーを演じた『SCOOP!』でも変わらない。リリー・フランキーはかわいい。

白石和彌にとってリリーは「奈落」である。その事実は『凶悪』を参照するまでもない。リリー・フランキーは底なしだ。

では、是枝裕和はリリーに何を見ているか。「オーガニック」である。『万引き家族』を持ち出すまでもなく、リリー・フランキーは無垢な存在として扱われている。

まあ、姫、と言ってもよいほどの大事にされ方である。

この三銃士(あえてそう呼ばせてもらう)は、リリー・フランキーがそこにいてくれることだけを望んでいるので、リリーが監督やその作品に合わせているムードは微塵も漂わない。望まれたので、訪れた。ただそれだけ。だが、監督たちは全員満足している。もちろん、私たち観客も、その都度満足している。

リリー・フランキーがリリー・フランキーでいてくれることが、作り手の心身を健やかなものにし、それが作品に結実し、受け手の心身も健やかになるのである。

『万引き家族』本予告

映画とその作り手が求めてやまない存在

映画というものは、それ自体が俳優批評と化すことがある。これは、優れた俳優にしか起きないことだ。

前述したとおり、大根仁、白石和彌、是枝裕和の三銃士は、姫に完全に魅せられているので、批評的な機能は有していない。ならば俺が、と割って入ったのが、三池崇史である。

リリー・フランキーは、ホームレスであり、神である。

三池は『神さまの言うとおり』で、ホームレスの風体だが、実は神(かもしれない)という役どころをリリーに付与し、真実に急接近した。

ホームレスであり、神。

リリー・フランキーが(たとえどんな悪党を演じようとも)穢れなき存在であることは、明白だ。大根仁が映し出すチャームも、白石和彌がのぞき込む底なし沼も、是枝裕和が醸し出す無菌性も、すべてはここに起因している。

言い切ってしまえば、聖なるもの。

なんびとにも支配されず、なんびとにも侵されることはない。何も寄せつけないし、何かを拒絶する振る舞いもない。

超然としたこの孤高は、善悪の彼岸を抹消する。境界線も、ボーダーラインも、ない。国境などハナから引かれていない生粋のコスモポリタンにして、生死の境目も定かではない魔物。

リリー・フランキーを見ていると、己がいかに些細なことに囚われているちっぽけな生き物なのかを痛感せざるを得ないが、なるほど【ホームレス=神】なのだとすれば、合点がいく。

どんなに薄汚れていても、光り輝く物体。

三池崇史と同い年の監督、塚本晋也は渾身の一作『野火』でリリー・フランキーを召喚し、三池の【ホームレス=神】をベースにさらなる読解を試みている。この映画でやおら登場するリリーは、ゾンビであり、悪魔であり、無間地獄であり、モノリスであり、象徴を超えた象徴であり、映画の細部であり、映画の全体であり、ブラックホールそのものである。

『blank13』や『お父さんと伊藤さん』など、生活感豊かなリリー・フランキーは多数存在するし、そこではリリーならではの情感やら人情やらが醸成されている。

しかしながら、そのようなときでさえ、リリー・フランキーには、空っぽの風情がある。よけいなものが何もない澄み切った風情は、夜明け前の湖の静止した水面を思わせる。

思えば、出世作『ぐるりのこと。』のときからすでにそうだった。献身的な夫、という物語上の設定だけに気を取られていると、この俳優の本質を見失う。それは、絶対零度の優しさと呼んでもいい非凡な情緒だった。

YouTube ムービー『ぐるりのこと。』

ホームドラマでありながら、ありきたりの生活感に一切背を向けた吉田大八の『美しい星』もまた、卓越したリリー・フランキー批評である。

自分は何処から来たのか。

魂の、精神の、望郷の空洞化現象を、親近感豊かに体現したリリーは、演じ手としてのありようが何よりもSF的だ。

『美しい星』本予告

時空を超え、越境に次ぐ越境を繰り返すことで、さらなる透明度を獲得していくこの俳優は、映画というメディアと深い親和性がある。

だから、映画とその作り手は、リリー・フランキーを求めてやまないのである。

迫真の佇まいが生み落とす“普遍”


この記事が掲載されているカテゴリ

この記事の画像(全12枚)


toji_aida

ARTICLE LIST

相田冬二さんの関連記事一覧

相田冬二さんの
新着・人気記事をお知らせします。