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浮遊することで息づく“力強さ”
柳楽優弥は、その初期において、多種多様な状況下に置かれても、一向に目減りしない、沈黙の生命力を発揮した。
『星になった少年』も、『爆心 長崎の空』も、『最後の命』も、その意味で必見である。強靭な沈黙、骨太な沈黙、捕らえて離さない沈黙が、そこにはある。
いずれも、言葉は少なく、無言の豊穣がある。私たちは、動物に接するように、天候に打ちのめされるように、空に魅せられるように、ただ見つめる。野生も、雨も、満天の星も、すべて無言であることに気づく。言葉がなくても、じゅうぶんに満たされることを、柳楽優弥の顔は教えてくれる。
その後、彼は、過激であり、過剰でもある第2期に突入した。
『合葬』
『ディストラクション・ベイビーズ』
『夜明け』
この3作を、私は【亡霊 三部作】と呼んでいる。無論、それぞれ監督は別だ。柳楽優弥が発散・拡散する沈黙の、尋常ならざるオーラが破格の領域に達し、畢生(ひっせい)のサーガを形成してしまった。
異形の時代劇『合葬』で、幕府のために殉死する一兵士の意志を、一切の説明抜きで体現する様は、純粋さが極まればここまで破格の迫力がみなぎるのだという意味で、純金と呼ぶべき精度を見せている。
有無を言わさぬカリスマ性は、『ディストラクション・ベイビーズ』では、徹底したサイレンスを誇示したまま、一方的にケンカをふっかけ、たったひとりのバトルを繰り広げる、ストリートファイターへと辿り着いた。生粋とは、これほどまでに無制限の謎を孕んだものだったのか。私たちの概念をぶっ壊し、無理やり、口移しで気つけ薬を含まされたよう驚きがあった。
『合葬』で確立した、己をイントロデュースせずに、ただ躰を投げ出し、画面に捧げる究極の潔さは、『ディストラクション・ベイビーズ』を経て、観る者を思考停止というゼロ地点へと放り投げる腕力へと熟成され、前例のない愉悦をもたらした。
私たちが、柳楽優弥を見ているのではない。柳楽優弥が、私たちを睨んでいる。
ヤバい、陶酔。
『夜明け』では一転、贖罪を抱え、時に消え入りそうなくらいの繊細を漂わせる主人公を演じた。だが、夢遊病のようにひとり歩く姿には、なぜか『合葬』『ディストラクション・ベイビーズ』とつながるものが、確かにあった。
不在の在、である。
『夜明け』の彼には、深く封印された過去があり、一度、心身共に死んでいる、と言ってもいい。初登場場面では、川縁に横たわっており、まるで水死体のようだった。
『合葬』は、死ぬことを覚悟している青年の物語だった。『ディストラクション・ベイビーズ』もまた、いつ死んでもいいと希求している欲望が野ざらしになっていた。
つまり、三者とも、あらかじめ、魂が肉体に固執せず、浮遊していた。浮遊することで息づく、力強さ。
それが、柳楽優弥ならではの、深化した沈黙によって、まざまざと見せつけられていたのである。
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