岩井秀人「ひきこもり入門」【第3回前編】ひきこもるほうが現実で生きるよりしんどかった



ひきこもり中の「友達」と「彼女」

昼間、母に連れられて本屋に行く日もあったし、夜に近所の公園の木を蹴って過ごす日もあった。木を蹴ってたのは、ゆくゆくリングに上がって前田日明を助けるためだ。蹴ったとこだけ赤〜くなってて、なんかうれしかったのを覚えている。

友達もいないわけではなかった。ひきこもり終盤の19歳くらいのころには仲のいいグループで集まってサッカーをしたりした。

ただ、彼らが僕の状態について知っていたかはわからない。自分から相談しなかったからだ。というより、できなかった。今考えれば、彼らも話せばちゃんと聞いてくれたとは思うが、僕の中の「友達」はそういうものじゃなかった。「無垢におもしろいことをただ言い合う」のみで、それ以外の行動は許されないと思っていたし、ましてや、高校を辞めると啖呵を切って宣言した友達には、「その結果失敗した」なんて弱音は絶対に吐けなかった。

夜になると公園に行って木を蹴っていた

不思議なことに、彼女らしき人物もいた。なんら約束をしていないので正確には彼女ではないのかもしれないが、とにかく週1くらいで家に来る女の子がいた。ずっと家にいるのになぜか部屋に女の子が来ることは、わずかながら生きるモチベーションにもなった。例の宇宙の話も嬉々として聞いてくれたし。

美大出身のイケイケ系の女子で、僕はひきこもりなのに、彼女によくクラブにも連れて行かれた。クラブに向かう電車では、自分の中で前提になっている「理想の岩井」が、彼女を全力で世の中の男たちから守っていた。彼女に指一本触れさせないようにまわりの男たちをにらみ散らしながらクラブに向かう。

店に着いたら、中に入るのは彼女だけだ。彼女は「入ろうよ、秀人」「えー、踊ろうよ、秀人」とか促してくれる。ふたりで来たんだから当然だ。だが、僕は店には入らない。

当時は「誰かにナメられたら死ぬ」くらいに思っていた。虫にナメられても死ぬと思っていた。「踊る」なんてことは、絶対にできないのだ。店の外から楽しそうに踊る彼女を眺め、まわりで踊っている男を見て「踊んな!」と思ったりしながらタバコをふかしていた。

とにかく自意識と現実の折り合いが全然ついていなかったんだと思う。

悪いやつらをぶっ倒すクールな「理想の岩井」は、ひとたび「社会」に出て他人と関わらなきゃってときにはもう、ただの呪いと化した。「理想の岩井」は「現実の岩井」の行動や言動を縛ってきて、全然自由を獲得できなくする。クラブに来たんだから踊りゃいいのに、そしてたぶん踊ったら楽しいのに、なぜかできなくなる。ちなみに「理想の岩井」は筋肉ムキムキで全然しゃべらない。今考えると、あんまり魅力的じゃない。

そんな僕と共に過ごしてくれた彼女は、些細な生きるモチベーションどころかその実、かなり大きな存在だったと思う。唯一本音を話せる相手だったかもしれない。

ある夜、彼女と初めてベッドでふたりっきりになったことがある。

僕はめちゃめちゃセックスがしたいと思った。言わずもがな童貞だったし。しかし、その性的欲求をどう伝えればよいのかわからず、考えに考えた挙句彼女に、「誰にも嫌われたくない」と言ってしまった。誘い文句としては完全に間違っているその言葉は、まさに「理想の岩井」の正体で、大本音だった。結局その夜はセックスではなく、ただただ悩み相談みたいになってしまった。

あるとき、そんな大きな存在の彼女に「実は付き合っている人がいる」と別れを切り出された。

そういえば、付き合う、付き合わないみたいな話はそれまでまったくしていなかった。悩んだ。悩みを相談する相手がいなかったし、しばらくは彼女のことを当の本人に相談していた。悩みの永久機関だ。でも永久機関はこの世にはない。結局、彼女とはそのまま別れてしまった。

彼女がいなくなって、いよいよ本当にひとりになった。

「人生、終わったな」と思い、2階のベランダの前に立った


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