俳優・古舘寛治 クソみたいな時代に再認識しておきたい「全体」の話

2020.2.26

クソのような時代だから、クソまじめと思われても書かずにはいられない

民族や国を単位とする全体主義は敵を必要とする。不満と不安の吐け口が必要だ。ヒトラーはそれをユダヤ人に求めた。不満や不安から来る怒りを向ける方角が決まった。

ヒトラーだろうが誰だろうがどうでもよかった。あの時代のドイツ国民は全体主義を望んだのだ。全体主義とは「右向け右」である。号令をかける独裁者が必要になる。独裁者は全体主義に必要であり、あのときそれがヒトラーだった。

そこに気づいてしまった上で、現在に目を戻してみる。あることに気づく。国民の多くが不満や不安を抱えているならば、たとえ時の権力者が退いてもその流れは変わらないことになる。人々に不満や憤懣(ふんまん)が蓄積され、不安や恐怖が溜まってくると全体主義を欲するのなら、トップが変ろうとも次に選ぶ人物の種類と方角は変わらないことになる。

古舘寛治_ジャーナル4回目
桜並木と国会議事堂

個では生きられない全体的存在の人間にとって全体主義は心地よい。

ではその全体主義の何がいったい問題なのか? それを考えてみる。まずはその何が人を惹きつけるのかを今一度整理する。一体感による高揚、強さの共有、権力側にいるという錯覚による安心感。全体にとっての敵を見下す優越感。なかなかに惹きつけるものがあると思う。

しかし問題は大きい。その全体が向かう方向が間違っていても修正が利かない。なぜなら「右向け右」という号令によって皆が同じ方向に向かうことを強制するのが全体主義だからだ。そして個々が違うことを言ったり、表現をする自由が奪われる。やがて暴力による圧政が始まる。全体が運命共同体となり個の権利はゼロとなる。そして壊滅的な戦争と敗戦に終わったのが先に経験した全体主義であった。

自由はいらない。命令に従い、不正には沈黙します。圧政にも耐えます。無意味な戦争をしても国のために命を捧げます。という人にとって全体主義は最良なものになるだろう。

だけど全体主義は、実は個を守ってはくれない。むしろ個の犠牲の上に全体(国家)を守ろうとする。個が滅び尽くされても全体を守ろうとするのが全体主義なのだ。

だからいくら全体的存在の我々であっても、全体主義は避けなければならないのである。

我々は皆、まず「個」なのである。弱い弱い個でしかあり得ない。個である自分を守るために「個」を大事にするシステムを作り守らなければならない。そこで今のところ最良なのは「皆が参加する民主主義」であり、決して全体主義ではありえない。

その「気づき」を忘れてはいけない。何度でも認識し直さなければいけないのだ。

ああ、またクソまじめな文章を書いてしまった。いや、このクソのような時代に書かされているのだ。と言い訳をさせてもらいたい。

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