「ホロコーストでアンネ・フランクが死んだ事実」をアニメで描く困難『アンネ・フランクと旅する日記』考察(藤津亮太)

2022.4.5
藤津亮太ジャーナル

文=藤津亮太 編集=アライユキコ 


ロシアによるウクライナ侵攻が戦争の愚かな悲劇を繰り返す今、伝えるべき事実がある。アニメ評論家・藤津亮太は「絵空事で事実をなぞっても、上辺だけの表現になりかねない」と、アニメの性質を受け止めながら、その困難に立ち向かう術を『アンネ・フランクと旅する日記』(アリ・フォルマン監督)の表現に見出す。

<アンネ・フランク基金>の注文

ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクは、オランダを占領したナチスから身を守るため、1942年から1944年までの約2年間を隠れ家で過ごすことになった。彼女は、この2年間の生活を日記に綴っていた。いわゆる『アンネの日記』だ。アンネは、日記帳をキティーと名づけ、この架空の少女キティーに呼びかけるかたちで日記を記していった。

<アンネ・フランク基金>が、この『アンネの日記』のアニメーション映画化を企画したのは2009年のことだったという。そしてその企画は『アンネ・フランクと旅する日記』として2021年に完成した。映画制作にあたってアンネ・フランク基金は、アリ・フォルマン監督に対し「現在と過去をつなぐこと」「アンネが最期を迎えるまでの7カ月間を描くこと」という注文を出したという。フォルマン監督はいかにこの注文に応えたのか。そしてそれはどのような効果を映画に与えたのか。

3.11公開 映画『アンネ・フランクと旅する日記』<本編映像>並走するふたつの初恋

まず「アンネが最期を迎えるまでの7カ月間を描くこと」という注文が、いかに難しい問題なのかという点から考えていこう。
『アンネの日記』は1944年8月1日で終わっている。その3日後の8月4日、アンネたちはドイツ秘密警察によって連行されてしまったのだ。だから語り手が沈黙せざるを得なかった「日記の、その先」をどう描くかは重要なポイントとなる。

2017年に出版された『[グラフィック版]アンネの日記』(あすなろ書房)は『アンネ・フランクと旅する日記』の監督であるアリ・フォルマンの翻案によるグラフィックノベル化である(邦訳は2020年出版)。おそらく映画の企画と並行して制作されたのではないだろうか。絵を担当したのはフォルマンの『戦場でワルツを』に美術監督として参加したデイビッド・ポロンスキーで、あとがきを見ると絵コンテ(コマ割りのことか)は『アンネ・フランクと旅する日記』のアニメーション監督であるヨニ・グッドマンが参加している。

[グラフィック版]アンネの日記』アンネ・フランク/アリ・フォルマン 編集/デイビッド・ポロンスキー イラスト/深町眞理子 訳/あすなろ書房
『[グラフィック版]アンネの日記』アンネ・フランク 著/アリ・フォルマン 編集/デイビッド・ポロンスキー イラスト/深町眞理子 訳/あすなろ書房

『[グラフィック版]アンネの日記』は、もちろん原作に忠実に本編は8月1日で終わっている。左ページ一面にその日の日記の文章を載せ、右ページにさまざまな表情のアンネの顔を描き、日記の最後に「アンネの日記はここで終わっている」と記してある。そして「あとがき その後に起こったこと」と題して、収容所に送られてからのフランク一家などの様子が記されている。「アンネの日記はここで終わっている」という付記と「あとがき その後に起こったこと」の内容も原作──邦訳でいうと『アンネの日記 増補新訂版』(文藝春秋)──を踏襲している。「日記の、その先」までをグラフィックノベルとして描こうとはしていない。

『アンネの日記 増補新訂版』アンネ・フランク/深町眞理子 訳/文藝春秋
『アンネの日記 増補新訂版』アンネ・フランク/深町眞理子 訳/文藝春秋

「日記の、その先」──つまりナチスによるホロコーストによってアンネ・フランクが死んだという事実──は、『アンネの日記』の歴史的価値と深く結びついている。しかし、そこを描くのは二重の意味で困難なのだ。

リアルに描いたからこそ、ウソになってしまう

まず第一に語り手の不在がある。『アンネの日記』を読めばわかるが、アンネ・フランクは非常に魅力的な語り手だ。苦難の中でもユーモアを忘れず、舌鋒鋭く大人を批判する時にもどこか茶目っ気がある。彼女のその鋭い感性が強制収容所の風景をどのように感じ取ったのかは、第三者が簡単に想像できるようなものではない。
そして第二にホロコーストそのものが描くことを拒むような出来事である、ということも大きい。強制収容所の実態は、どんなにリアルに描こうとも、あるいはリアルに描いたからこそ、ウソになってしまう種類の出来事だ。

作家の小川洋子はアンネ・フランクの足跡を追った『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)という紀行文を著している。小川はその旅の最後に、アウシュビッツ第一強制収容所とアウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウを訪れている。

『アンネ・フランクの記憶』小川洋子/KADOKAWA
『アンネ・フランクの記憶』小川洋子/KADOKAWA

「小部屋いっぱいの髪の毛──それはこれまでに経験したことのない、とても非現実的な光景でした。年月を経て、千差万別であったろうその色は抜けてしまい、みんな同じようなくすんだ色になってしまっています。
 わたしはその時点で、ミープ・ヒース(引用者注:フランク一家などを支えた協力者)からアンネの化粧ケープを見せてもらっていました。そのために、この無数の髪の山のなかに、アンネやマルゴーの髪もあるかもしれないという思いにとらわれました。(略)

『犠牲になった無数の人々』と紋切り型で表現するのは簡単です。アウシュビッツの犠牲者を数値化することも可能でしょう。しかしそれは1+1+1の集積なのです。一人ひとりの人間が重なってできた数字です。ここに、アンネ・フランクが果たす役割があるとわたしは思います。」

『100分de名著 アンネの日記 言葉だけが救いだった』小川洋子/NHK出版
『100分de名著 アンネの日記 言葉だけが救いだった』小川洋子/NHK出版
『100分de名著 アンネの日記 言葉だけが救いだった』小川洋子/NHK出版

ここにある髪の毛には皆、持ち主がいたということを想像できた瞬間に感じられる重み。それは事実、実物だけが持ちうるもので、フィクションに置き換えてしまった瞬間に、表現からはこぼれ落ちてしまう。しかもアニメーションは絵である。絵空事で中途半端に事実をなぞっても、それは空虚な上辺だけの表現になりかねない。

『アンネ・フランクと旅する日記』の大胆なギミック

フォルマンは、こうした困難を乗り越えるため、『アンネ・フランクと旅する日記』に大胆なギミックを導入した。それは博物館<アンネ・フランクの家>に収められた「アンネの日記」から、日記でアンネに呼びかけられていたキティーが突然実体化し、彼女が現代のアムステルダムでアンネ・フランクを探す──というものだ。

なお、実体化こそしていないが、1995年に公開されたアニメーション映画『アンネの日記』(永丘昭典監督)にもキティーは登場している。本作は、前年に邦訳が出版された『アンネの日記 完全版』(文藝春秋)を原作にしたもので、アンネの日常を丁寧に描き出している。

『アンネの日記』DVD/日本コロムビア
『アンネの日記』DVD/日本コロムビア
『アンネの日記 完全版』アンネ・フランク/深町眞理子 訳/文藝春秋
『アンネの日記 完全版』アンネ・フランク/深町眞理子 訳/文藝春秋(1994年に出版された「完全版」に、新たに発見された日記を加えた「増補新訂版」が2003年、文春文庫として発売)


本作もまた『アンネの日記』を原作にしている以上、「日記の、その先」を描くことの困難を抱えていた。映画のストーリーは、アンネたちが連行されるところで終わる。アンネたちが連れさられていくシーンが、冒頭に置かれたアムステルダムの朝の風景の点描をなぞるように構成され、「連行が意味すること」と「世界の美しさ」のコントラストを際立てている。この映画の終幕に置かれた静謐な風景は、『夜と霧』(みすず書房)に記された、夕陽を見たアウシュビッツの囚人が漏らしたという「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」という言葉と通じ合っている。

『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子 訳/みすず書房
『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子 訳/みすず書房

街の風景の後、荒らされた隠れ家の机の上に日記帳が残っていることが示される。そこにキティーのナレーションが重なる。声はアンネを演じた高橋玲奈が演じている。

「わたしはキティー。わたしの大切なアンネたちがこの隠れ家から連れていかれてから9カ月で戦争は終わりました。8人の中で唯一人オットーさんだけは生き残ることができましたが、ほかの人は誰も帰ってきませんでした。」

画面には隠れ家で暮らした人々のその後がテロップで映し出される。収容所で生き延びたのはアンネの父、オットーだけだった。

「あれから長い年月が過ぎました。でもアンネの願いはまだかなえられず、この世界には戦争も差別もなくなっていません。しかし、私は絶望はしません。アンネはいつも希望を持っていました。理想を捨てませんでした。アンネに代わって生き残った私は、いつまでもアンネの願いを話しつづけたいと思います。」

こうして映画は幕を下ろす。キティーというキャラクターであれば「日記の、その先」を語ることができるのだ。

ホロコーストを象徴的に描く

では、フォルマン監督が『アンネ・フランクと旅する日記』に登場させた、実体を持つキティーは映画の中で具体的にどのような役割を果たしたのか。

キティーは80年の時を経て、現代(作中では“今から1年後”と設定することで、作品が風化しづらいように工夫している)に現れた。だからアンネがどうなったかを知らない。アンネを求めて街をさまようキティー。アムステルダムの各所にアンネの名前を冠した施設はあるが、アンネはどこにもいない。原題である『Where Is Anne Frank』のとおりの展開だ。

やがてキティーは図書館で、関連の本を調べ、アンネたち隠れ家の住人たちのほとんどが強制収容所で死んだことを知る。そして最終的にアンネが最期を迎えたベルゲン・ベルゼン強制収容所へも足を伸ばす。収容所で渡されたタブレットPCでは、(おそらく)収容所で有刺鉄線越しに再会したハンネリ・ホースラルがアンネと最後に会った時の記憶を語っている。

映画は冒頭に、<アンネ・フランクの家>を訪れた“観光客”の様子を通じて、アンネ・フランクの生きた時代が遠い過去になりつつあることを示す。その上で、キティーが現代の観客のアバターとして「日記の、その先」を体験していく役割を演じることになる。これがキティーを実体化して描いたことの大きな効果だ。
しかし「日記の、その先」を描くには、まだ足りない。フォルマン監督はそこにさらにもうひとつ特徴的なアプローチを採用した。キティーが知っていくアンネのその後を描く時、なるべく直接的に描かなかったのだ。

「最終的には、ナチスによる殺害現場と、アンネが夢中になっていたギリシャ神話の冥界との間に、多くの類似点を見出しました。ナチスの要素には列車、移送、選別、死の収容所が登場します。一方のギリシャ神話には、列車ではなく渡し舟があり、陸地ではなく河が出てくる。そして冥界を支配する神ハデスが選別を行います。フランク一家が収容所で経験したことをギリシャ神話に由来する映像に重ね、理解を促すモンタージュができると考えました。」

映画パンフレットのインタビューより
『アンネ・フランクと旅する日記』パンフレット
『アンネ・フランクと旅する日記』パンフレット(筆者私物)

先述のとおりホロコーストにまつわるさまざまな描写は、直接的に描こうとしても表現し得ない部分をはらんでいる。そこを映像化するにあたり、フォルマン監督はアンネの中にあったであろうイメージを使い、象徴的に描く。これは確かにひとつのスタイルといえる。

しかしこれは同時に疑問も浮かぶ。フォルマン監督は『戦場でワルツを』のラストで、虐殺の現場の報道映像、つまり実写を挿入して映画を締めくくっていた。にもかかわらず『アンネ・フランクと旅する日記』では、実写映像を挿入することはせず、あくまでもアニメーションによる象徴的な表現にこだわった。それはなぜなのだろうか。

2008年の『戦場でワルツを』は、フォルマン監督が19歳の時に兵役で参加したレバノン内戦を巡るアニメーションドキュメンタリーだ。レバノン内戦では、レバノンの民兵組織「レバノン軍団」がパレスチナ難民キャンプに突入して虐殺を行うという「サブラ・シャティーラの虐殺」という事件が起きた。フォルマンは、その夜、現場近くにいたはずだがその記憶を失っていった。かつての戦友などのもとを訪ね、記憶を辿っていったフォルマンは、最後にその夜の記憶を取り戻す。その夜、彼はイスラエル軍の一員として「レバノン軍団」に対する突入の合図として、照明弾を打ち上げていたのだ。こうしてフォルマン監督が自らの罪の記憶たどり着いた後、虐殺の様子を伝える実際のニュースの映像が映し出され、映画は締めくくられる。

『戦場でワルツを』DVD/ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
『戦場でワルツを』DVD/ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント

『戦場でワルツを』との違いを通して

『戦場でワルツを』と『アンネ・フランクと旅する日記』の演出の差はどこに起因するのか。ここを入り口にして、現実の戦争をアニメーションの中でいかに描くか、ということについて思考を巡らすことができる。
たとえば、以下のような差異が2作の違いに結びついたというふうに考えられる。

フォルマン自身が当事者であるか否か。残っている資料(写真や動画含む)が描きたいことと具体的に結びついているか否か。観客に子供を想定しているか否か。時代を超える普遍性の与え方としてどういうアプローチがあるか。──などだ。

個人的にはやはり主題の違いが大きく左右しているのではないかと思う。
『戦場でワルツを』は真実を求める映画だ。だからこそ、最後に実写=本物を見せる必要があった(もちろんここについてニュース動画が“本物”かどうかについては素朴過ぎる姿勢であるという批判はありうるだろう)。

これに対して『アンネ・フランクと旅する日記』の場合は、真実を求める内容ではない。ホロコーストが真実であるのは揺るがない。本作で大事なのは、ホロコーストに至る出来事をアンネという個人の体験の中でいかに語るか、という点にある。その場合は、収容所の彼女をとらえた具体的な映像や、彼女の書き残した具体的な言葉が存在しない以上、象徴的な語りを採用したほうが、よりアンネという人物に、体験に迫ることができる。

キティーが日記から実体化するシーンは非常に官能的だ。インクの線が緩やかに絡み合い、全体が次第に色づいていく。まさに命を吹き込む魔法としかいいようのない過程を経て、キティーは誕生する。これはつまり絵で描かれたからこそ、その向こう側には宿る命=真実があるということを伝えており、本作の所信表明のようなシーンであるといえる。そういう本作からすれば、『戦場でワルツを』のような実写を使うというアプローチにはならない、というふうに本作を読み解くことができる。

私はここに生きている

ではもうひとつの注文である「現在と過去をつなぐこと」についてはどうだったのだろうか。

まず第一にキティーは現代の観客の代理人としてアンネの人生を知る役割を果たしている。それだけでも十分「現在と過去をつなぐ」役割を果たしているといえる。
しかし、本作はキティーにホロコーストへの案内人という役割だけでなく、もうひとつ重要な役割を加えた。それがキティー自身が難民問題に関わることになるという展開だ。

フォルマン監督自身も認めているとおり、ホロコーストと難民問題の間には直接的な関係はない。しかし、どちらも「そこにいないことにされた人々(子供)」をめぐる人権問題なのだ。この「人権問題」という切り口が示されたことで、ホロコーストという歴史の教訓にとどまらず、より普遍性のある問題として現代人に迫ることになった。

映画冒頭で<アンネ・フランクの家>に並んでいる観客たちが、路上の難民たちに無関心であるという皮肉なシチュエーションが描かれる。そしてその光景に対するアンサーが、キティーが本作のクライマックスに掲げる「I AM HERE」という言葉なのだ。

これはもちろん原題の『Where Is Anne Frank』に対する答えでもある。「そこにいないこと」にされている子供たち。そんな言葉なき子供たちのために、アンネの日記は「私はここに生きている」と訴えつづけるのである。

日記の内容だけでなく「日記の、その先」を独自のアプローチで描くという歴史的役割を果たしつつ、人権問題という観点で『アンネの日記』の中にある現代性を浮かび上がらせた。それが『アンネ・フランクと旅する日記』という作品なのである。

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